今聖書をどう読むか <マタイ19:16-20:16>(2003 聖書研究レジュメ)

2003年6月25日(水)午後3:40-4:40、
横浜英和学院ハジス記念会議室、
中学高校教師及び管理職10数名

(川和教会牧師代務者2年目、健作さん69歳)

1−1、新共同訳聖書の福音書には何故、原文にはない「共観福音書」の並行箇所が記載されているのか。福音書は文学である。伝記文学。教義的まとめではない。

1−2、資料説を知っておこう。
 マルコ及び”Q”(Quelle資料)を資料として編集された、マタイ・ルカ。
 マルコ+”Q” → マタイ(+マタイ特殊資料)、ルカ(+ルカ特殊資料)

2−1、マタイの特徴。伝統(ユダヤ教的なもの)の継承と変革(教会形成)との緊張。

3−1、「捨てる」ということ。所有からの自由。マタイ6:19-20(地上の富は虫が食う)、10:9(財布の中に金貨を入れるな、12弟子の派遣)、13:22(富の惑わしがみ言葉を塞ぐ)、19:21(金持ちの青年、天に富を積む、貧しい人々に施しをする)。

3−2、「金持ちが神の国に入ることの難しさ」。弟子たちの驚き。

3−3、人間にできることではないが、神にはなんでもできる。(マタイ19:26)

4−1、ペテロの自負。「何もかも捨ててきた」(19:26)。逆説のなさ。

4−2、並行記事。マルコ10:17-31(及びルカ18:18-30)の提示する問題。
 イエスに対する「弟子たちの無理解」のテーマをマタイも継承。

4−3、マタイの教会に「先なるもの」といわれる「教会ボス」がいたに違いない。教会指導者としてのマタイはこのボス退治に苦労する。

4−4、自負の力によって立つ、自己完結的な信仰理解から自由ではないペトロに象徴される教会人で「先の者」が持つ成り行きとしての権力構造。

4−5、「捨てることの逆説性、命の関係性」。(芥川龍之介『杜子春』)
 強調点:「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。

5−1、なぜマタイにのみ「逆説の強調点」があるのか。マタイ20:1-16の重さ。

5−2、マタイは20:27で「いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために…」(20:27-28)と述べ、「後と先」の逆説を裏付ける。逆説を物語ることの難しさ。譬えの引用。

5−3、「ぶどう園の労働者」の物語はマタイ特殊資料。ショットロフ(ドイツの新約学者)によれば、最も古い伝承を担ったのは、イエスと共にいた最底辺の貧しい日雇い労働者であったろうと指摘している。この譬えから「神の慈しみの優勢性」ということだけを学ぶとしたら、もう一方の日雇い労働者の、この伝承を語り伝えてきた心の躍動が落ちてしまう。これを語り継いだ人たちは、これを語ることによって、社会的差別、貧しさからの解放を味わった。宗教的領域の真理(神の前の平等性、あるいは神の恩寵、恵みの絶対性、「ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる(ロマ3:24)」)の説明だけではないところに、歴史の中の譬えの重要さがある。何の譬えで語るかで、その人が分かる。

5−4、資本を持つ大土地所有者というこの世の現状を映しながら、なお労働の協力、生産の共労などの暗示がある。権力関係だけでは動かない。後の者で支えられる社会のつながり。

5−5、「後にいる者が先になり」(マタイ19:30)とは異なる順序に注意。

6−1、今の現実の中で何を想像して読むかが大事。自分を誰に重ね合わせて読むのか。朝からの者か、夕暮れからの者か(ぶどう園の労働者)。聖書が応えることを促す。それに応えることが「読む」こと。

(2003年6月25日(水)午後3:40-4:40 
横浜英和学院)


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