装いの彼方(2003 説教原稿・要旨)

2003年6月22日 川和教会礼拝説教
説教原稿、要旨(配布レジュメ)

(神戸教会牧師退任1年、川和教会牧師代務1年、
鎌倉在住、健作さん69歳)

(説教要旨)ヨブ記5:8-27

1.ヨブ記は正しい者がなお苦難を受けるのは何故かを一般論としてではなく一人の苦難を背負った人の叫びとして扱った、文学作品。約2500年も前の書物ですが、大変現代的なテーマでもあります。

2.ヨブ記3章は、苦難を受けて「自分の生まれた日を呪う」ヨブの姿を通して、苦難の不条理と真っ向から向き合います。ヨブの苦難は凄まじいものでした。その言葉の激しさが読者の胸をしめつけます。

3.さて、一つの仮定ですが、もしこのヨブの傍らに自分が居たらどうするでしょうか。ヨブ記はドラマです。このドラマの作者は、相当に深い読みを持っています。この「呻き…わななく」(3:24-26)ヨブの傍らに、最も悪い例の人を配置し、登場させます。そして、それが、もしかしたら「あなたではないか」という問いを読者に与えているのです。4章一5章はこうして始まります。

4.2節「あえて一言いってみよう」(直訳「言葉を試みる」)。「試みる」は「慣れている(サム上17:39、ダビデは鎧兜に慣れていなかった)」という意味です。ヨブの友人エリファズは、いわゆる「意見を述べること」に慣れているのです。12節で彼はそれを「忍び寄る言葉=神秘的体験」だといいます。彼は、特別な宗教経験、人生経験から得た世界観、人生観、宗教観、哲学、神学を持った人なのです。そして、ヨブを諭します。

5.4章7節から彼の意見が述べられます。それは善人は救われ悪人は減ぼされる、だから、その事をこそ悟れ、という因果応報の思想に基づいた勧めです。

6.ここで問題なのは、エリファズの言葉は一つの立場、理屈、教訓、論理として語られている事です。一般化されている故に、自己完結性を持っているのです。宗教が逆説である事まで含めて論理化されている事が問題なのです。問題は、相手が、現にそこで苦しんでいるのに、一般論(たとえそれが正しい事であっても)を、滔々と述べることができる神経なのです。
聞いている者が、それを聞く事で、ほとほと疲れるのです。苦悩するものを疲れさせる発言とは何であるのか。これがこの箇所の言いたいところなのです。

7.これは極めて現代的問題です。(北風と太陽のお話の経験)。

8.苦しむ友への最大のつとめは、訓戒や説明ではなく、たゆみない祈り。

(2003年6月22日 川和教会礼拝説教要旨 岩井健作)


(説教原稿)

 先週に引き続き、ヨブ記を学びます。ヨブ記は正しい者がなお苦難を受けるのはどういうわけかという問題を扱っています。2500年も前の書物ですが、今の時代にも正しい人がいわれのない苦難を受けていますから、その意味では大変現代的なテーマでもあります。私の親しかった青年で、将来を社会からも職場からも、そして何よりも両親から兄弟姉妹から嘱望され期待されていたものが、ある日突然白血病を宣言され、何故とその不条理を問い続けていた時、傍らにいた者として本当に無力を感じました。
(参照:『為ん方つくれども希望(のぞみ)を失わず − 藤村透・闘病の記録』より

 ヨブ記はその不条理に真っ向から取り組んでいます。ヨブの苦難は凄まじいものでした。3章には、苦難を受けて「自分の生まれた日を呪う」ヨブの姿が記されていました。その言葉の激しさが読者の胸をしめつけます。

 さて、一つの仮定なのですが、もしこのヨブのかたわらに自分が居たらどうするでしょうか。ヨブ記はドラマです。このドラマの作者は、相当に深い読みを持っています。この「呻き・わななく」(3:24-26)ヨブの傍らに、最も悪い例の人を配置し、登場させます。そして、それが、もしかしたら「あなたではないか」という問いを読者に与えているのです。4章一5章はこうして始まります。

 2節「あえて一言いってみよう」(直訳:言葉を試みる)。「試みる」は「慣れている(サム上17:39、ダビデが鎧兜に慣れていなかった)」という意味です。ヨブの友人エリファズは、いわゆる「意見を述べること」に慣れているのです。

 12節で彼はそれを「忍び寄る言葉=神秘的体験」だといいます。彼は、特別な宗教経験、人生経験から得た世界観、人生観、宗教観、哲学、神学を持った人なのです。そして、ヨブも「あなたは多くの人を諭し」人の上に立つ人だ、と申します。

 ヨブは、当たり前ならば、人生の教師、助言者なのです。そのあなたが、弱音を吐くとは何事か、と叱咤激励します。

 そして4章7節から彼の意見が述べられます。それは善人は救われ悪人は減ぼされる、だから、その事をこそ悟れ、という因果応報の思想に基づいた勧めです。

 4章を開けて下さい。

「人は神の前に正しくあり得ない」(4:17)、「私ならば、神に任せる」(5:8)「神は貧しい人を剣の刃から救い出してくださる。だからこそ弱い人にも希望がある。見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけられても、包み、打っても、その御手で癒してくださる」(5:15-18)。

 先ほど、ヨブの傍らに侍る者の、最も悪い例を持ってきて「それはあなたではないか」と問うているのが、この箇所だ、と申しました。

 ここで問題なのは、一つの立場が語られていることです。もっと悪く言えば、一つの理解が語られていることです。理屈と言っては失礼ならば、教えと言っても良いし、論理と言ってもよいと思います。

 27節にはそれがよく出ています。

 宗教は逆説である、とよく言います。例えば、試練もまた神の恵み、と言います。確かにそうなのです。そのような逆説を論理化したことまで含めて「論理」が語られているのが、エリファズの言葉なのです。「論理」というものは一般化されている故に、自己完結性を持っているのです。大変聞かせる論理なのです。17節には「全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても包み、打っても、そのみ手で癒してくださる」と言っています。

 問題は、相手が、現にそこで苦しんでいるのに、一般論(たとえそれが正しい事であっても)を、滔々と述べることができる神経なのです。聞いている者が、それを聞く事で、ほとほと疲れるのです。苦悩する者を疲れさせる発言とは何であるのか。これがこの箇所の言いたいところなのです。

 これは極めて現代的問題です。実は、このテキストから、私は何よりも、自分の日頃の牧会・伝道を反省させられています。

 何かの折にお話ししたかもしれません。

 幼稚園に情緒障碍児をお預かりした時のことです。お友達の間に入ってコミュニケーションが出来るようになったのですが、小学校入学が近づくと、まるでおかしくなり始めました。お母さんが一生懸命に学習機を使っていることがわかりました。それではダメだ、園長先生そのことを話して下さいと頼まれて、私は帰りがけの幼稚園の庭でお母さんに話しました。北風と太陽の話をしました。北風になってはダメだ。お母さんは大粒の涙。お母さんは言います、園長は一時、お母さんは一生、この私の悩みが分かりますか!と。やがて、北風とは自分の事だ、とお母さんは気が付きます。

 私はヨブ記の今日の箇所のことを思い出していました。

 エリファズとはあなただと問われている。悩みを共にするとは何か。私には出来ていない。

 苦しむ友への最大のつとめは、訓戒でも説明でもなく、たゆみない祈りであることを、私どもはエリファズの態度から逆に教えられます。

 私は長い間牧会者として歩んできた。考えてみると、訓戒や説明を多くしてきた。いつも祈りが足りなかった。

 ひとえに、牧会者は、赦されていることを信じる以外に居場所がありません。

 ヨブ記はその意味で、人に語る書物ではなく、自分の内省として読むことのできる書物です。その意味で、神学書ではなく、文学書なのです。文学とは内省の営みなのですから。

 祈ります。


説教原稿は4ページ

礼拝説教

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