クリスマスの家族(1999 神戸・礼拝説教)

1999.12.24、神戸教会 クリスマス 燭火礼拝

(牧会42年、神戸教会牧師22年目、健作さん 66歳)

ペトロの手紙一 4:8 新共同訳
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

 クリスマスおめでとうございます。
 今晩は、ご家族で、楽しくこの礼拝にお出かけの方もあり、またこれから家庭を営もうとしている恋人どうしで並んで礼拝を守っている方もあると存じます。また、大事な家族を天に送って、悲しみを胸の内に宿して、天上と地上とに別れた家族を思いながら、ここにおられる方もあると存じます。或いは、少々うっとうしい家族から離れて、お友達と一緒にきている方もあるかもしれません。もしかしたら、家族の問題に心を痛めつつ、心の慰めや励ましを求めてご出席の方もあろうかと存じます。

 今年のクリスマスの待降節が始まった11月28日、私たちの教会では「家族」というテーマを考えようという事で、関西学院大の教授で、カナダからの宣教師でもあるニノミヤ・アキイエ先生をお招きして、集会を持ちました。

 ニノミヤ先生は「Nuclear family(核家族)からUnclear family(不明家族の時代へ)」と題して、家族が形のうえでも、人間関係のうえでも大きく変化している事を述べられました。事実、フランスのパリだけではなくて、日本でも戸籍法に抵抗があって、結婚しても事実婚のままで、届け出はしないというご夫婦も見受けられるようになりました。落ち着いた郊外の住宅地の中産階級の家庭で、子供たちが、自分の存在感を抱き将来に希望を抱いて育つという神話は、神戸の須磨事件を契機に、もはや崩れてしまいました。団欒のある麗しい家族は、健全な社会の単位であり、国家や民族の基礎でもあるという見方をして、アメリカでも日本でも、指導者達は、健全な家庭の育成にいろいろな施策を考えています。そんなことでは追いつかないのが現状です。さらに、家族がいない人達が増えています。

 今年度、神戸大学で行われた地震の後の、復興公営住宅居住者の追跡調査によりますと、1275世帯の回答者の45.8%が単身者世帯だということです。8月に神戸市が実態調査したところでは、市内に野宿をしている人は335名だったといいます。この人達も家族と一緒に生活している人ではありません。Uncear Familyの時代です。

 聖書の中で、イエスは家族について、どんな事を言っているでしょうか。イエスの父親ヨセフは早く亡くなりましたので、家族という言葉を直接に使ってはいませんが、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言っています。これは、イエスが家を出て、神の国の宣教活動をしている時、家の者達が、心配をしてイエスを探しに来た時に言われた言葉です。家族が血の繋がりの上にだけなり立つのであれば、随分激しい言葉です。しかしこの言葉をよく読んでみると、ここでは、家族を成り立たせる、原理が二つに分けられて、示されています。

 一つは血の繋がりです。兄弟、姉妹、母は、当然まず肉親を意味します。血の繋がりの内々の関係を言っています。そこには内々を活かす愛、内々を守る愛が働いてこそ家族が成り立っていることが示されます。しかし、肉親の関係だけが家族でしょうか。肉親であればこそうまくいかないということは、例を挙げれば枚挙に暇がありません。内々の関係がうまくいかないので、外からお手伝いをしなければならない時というものは極卑近な社会生活にもあります。例えば、子どもが家庭の内々で虐待を受けている時、それは親の問題だと内々だけの関係にしておけるでしょうか。そこにはおのずと内からも外からも関わりの仕方には限度があるでしょう。

 が、内々を否定するのではなく、包み込みながらも、なお、外からの関係を、大人や社会のルートを通して持たねばならない時があります。

 そのような意味で、家族は、内と外から支えられています。これを内なる愛と、外なる愛との二つのことと考えます。もう少し、他の言葉で言い換えてみますと、自分を守る愛と相手を活かす愛とも言えます。直線のストレートな愛と間接にカーブを描く愛とも言えます。聖書では、自己愛エロースと他者愛アガペーなどという分け方もします。人間中心の愛と神による愛。奪う愛と与える愛、という言い方の区別をした文学者もいます。

 聖書は愛について、沢山の言葉を宿しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ 3:16)、「愛することのない者は、神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネの手紙一 3:7)、「愛は多くの罪を覆う」(ペトロの手紙一 4:8)。

 イエスが家族について「神の御心を行う者」が家族だという時には、内々の愛だけにこだわるのではなく、外からの愛、多くの罪を覆う愛に目覚めることの促しがあると思います。内々の閉塞を破る、外からの愛がなければ、人は息づまってしまう。私たちの罪深さに気が付き、多くの罪を覆う愛の存在を信じよ、と言うことです。

 イエス自身は、団欒のある和やかな家族を経験している訳ではありません。父親ヨセフは早く亡くなり、兄弟姉妹も多く、家計を支える役目を担いました。母親との関係もそんなにうまくいかなかったことが、家出、或いは発心、信仰への旅立ちであった、ともある宗教思想家は言っています。そうして、家庭を持つこともなく、政治と宗教の権力の狭間で、十字架につけられて殺された、という生涯でした。

 しかし、外からの愛を、身をもって示した存在でありました。聖書はそのことを、マリヤが「聖霊によって身ごもった」という信仰上の表現をもって、示しています。

 ヨセフとマリヤとイエスの家族のことを、後々の人は聖家族とよびました。聖なる、とはどういう意味でしょうか。それは、神の愛、人の世界の外からきり結んでくる愛を示している家族という意味でしょう。マリヤは三十年余り後、十字架からとり下ろされたイエスの亡骸を抱くことになります。ヨハネ福音書は「世の罪を負う神の小羊」という言葉でこの姿を表現しました。多くの罪を覆う愛の、外からの関わりをうまく表現したものだと思います。

 外からの愛、につられて思い出す、こんなクリスマスのお話があります。
『雪のぼうや』という、イヴェット・テゥボー(『4つのすてきなクリスマス』リブロポート1990)の作品です。

 昔、心の優しいおじいさんとおばあさんが森の外れに住んでいました。雪の降ったある日、おじいさんは雪だるまを作りました。二人は可愛くてたまらないので、帽子と襟巻きを作って木の靴を履かせました。雪の坊やは、年取った二人を助けて一生懸命に働きました。村へお買い物にも行きました。クリスマスが来ました。「わしらの可愛い坊やの初めてのクリスマスだ。クリスマス・ツリーを立ててやろう」。
 クリスマスの日、サンタクロースは煙突から煙突へとプレゼントを配って忙しく飛び回っていました。小さい子どものいる家は、すぐに見つかります。サンタクロースにだけ見える小さな星が輝いているからです。ところが、サンタクロースは森の外れの小さな家にも、星が光っているのを見て、とても驚きました。その家には、子どもはいなかったはずです。その星は、今にも消えそうなくらい微かに光るだけです。サンタクロースはとても気になりました。近ずいて窓から覗いてみました。すると、ベッドには青白い雪の子どもが眠っているではありませんか。クリスマス・ツリーの下には、プレゼント用の木靴がおいてありました。サンタクロースは、この小さな雪だるまにも、いちばんすばらしい贈り物をしようと思いました。いちばん素晴らしい贈り物!そうです、サンタクロ−スは雪の坊やを人間の子どもにしたのです。朝、目を覚ましたおじいさんとおばあさんはどんなに驚いたことでしょう。少年はどんなに嬉しかったでしょう。少年はジャン・ノエルと名付けられました。ノエルとはクリスマスという意味です。外からの愛でここに新しい家族が誕生しました。

 私たちも、私たちの家族が内々を固めるだけでなく、サンタクロースが、神のいのちを配って歩いていることに夢を託して、クリスマスの家族への望みを持つ者となりたいと存じます。

 お祈りをいたします。

 神様、私たちが、いつも心を開いた生き方が出来て、自分と違う人との出会いを豊かにしていくことが出来るように、守ってください。主のみ名によって祈ります。