約束された国《ヤコブ 2:1-7》(1999 礼拝説教・週報)

1999.5.16、 神戸教会、神戸教会週報、復活節第7主日

(牧会41年、神戸教会牧師 21年目、健作さん65歳)

ヤコブの手紙 2:1-7、説教題「約束された国」

”神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。”(ヤコブの手紙 2:5、新共同訳)

 金の指輪をはめた立派な身なりの人には、上席を案内して、汚らしい服装の貧しい人は蔑視するという、こんな差別が教会の中にあったとすれば、看過することは出来ません。

 ヤコブは「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と戒めます。

”わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。”(ヤコブの手紙 2:1、新共同訳)

 しかし、生身の人間の差別体質を克服することがいかに困難かを著者は知っています。

 貧富が社会的現実である以上、自分の生き方の中で、それを受容し、かつ変革しつつ、自分の主体性を打ち立ててゆく以外にありません。


 ヤコブでは、2つのことが示されます。

(1)一つは、貧しさの意味の転換です。5節の「神は世の貧しい人たちをあえて選んで」に示されています。

 これはパウロがイエスの存在に結びつけて、繰り返し強調しているところです。

”世の無力なものを選び”(Ⅰコリント 1:27、新共同訳)

”主は豊かであったのに、あなたがたのための貧しくなられた。”(Ⅱコリント 8:9、新共同訳)

”キリストは、…自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり…へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(フィリピ 2:6-8、新共同訳)

 この世ではマイナスである「貧しさ」が、力・富・権力などこの世では絶対的で揺るぎない価値と思われているものを、相対化して、今まで見えてこなかった、本来の豊かさを浮かび上がらせる契機となっている、と示されています。

 貧しさの意味が、経済的なものと宗教的なものとの二重性を持ち、逆説性を持っているのです。

(2)第二は、6節の「富んでいる者たちこそ、あなたがひどい目にあわせ」という認識です。

 これは、旧約聖書の”預言者”が社会的弱者を手酷く扱う金持ちを告発する視点を継承しています。

 ここを外すと、貧しさが心の問題だけになって、この箇所の終末論的な「約束された国を受け継ぐ」という視点が出てきません。

 ヤコブがこの手紙を書いた諸教会では、貧しさの持っている信仰的意味と、富む者の悪に対する現実認識が共に希薄だったのです。

 これは今日の教会への問いでもあります。

 このテキストの慰めは、「神は…貧しい人たちを…約束された国を、受け継ぐ者となさった」というところです。

神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。”(ヤコブの手紙 2:5、新共同訳)

「御国を受け継ぐ」という思想は、聖書の根本にあります(マタイ 25:34、Ⅰコリント 15:50)。

”「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。”(マタイ福音書 25:34、新共同訳)

 ”兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。”(Ⅰコリント 15:50、新共同訳)

 そこには、開かれた、自分の存在、居場所があります。

 何かが起きるだろう、と信じて生きてよいのです。


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