神戸教會々報 No.151 所収、1998年7月19日
(健作さん64歳、牧会41年目、神戸教会牧師21年目)
打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。 詩編 51:19
小さなぺツェッティーノは、自分は取るに足らない部分品だと思い込んでいます。
彼は「はしるやつ」に「ぼくはきみのぶぶんひんじゃないでしょう?」ときくと、「ぶぶんひんが足りなくて、はしれるはずないだろう?」といわれてしまいます。
「つよいやつ」も同じ答えです。
「かしこいやつ」にきくと、「こなごなじまへ いってごらん」といわれます。
海の向こうのこなごな島は小石の山で、草一本生えていません。生きている者がいないのです。その島で彼はけつまずいて、こなごなになってしまいます。
ぺツェッティーノにもやっと自分が同じように部分品が集まって出来ていることが分かりました。彼は自分自身を拾い集め、足りない部分品が一つもないことを確かめ、ボートでこなごな島を脱出します。
そして友達に「ぼくは ぼくなんだ!」と叫びます。
そして喜んで迎え入れられるのです。
この絵本『ぺツェッティーノ―じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし』(好学社 翻訳・谷川俊太郎 1978)の著者レオ・レオニはイタリアで1939年反ファシズム運動に加わり、後アメリカに亡命し、1950年には全米に荒れ狂った赤狩りのマッカーシズムの被害を受けた人です。
全体からではなく、小さな小さな単位から人を視ていく思想に生きた芸術家です。
彼の「部分品」という工業的用語に多少の違和感を覚えますが、これを人間の基本的単位である「人格」あるいは宗教的発想である「魂」とのいう言葉に置き換えるならば、「こなごなじま」と「魂」との対比は、きわめて今日的問題です。
私たちの時代は人間の根底をこなごなにしてしまう力学を持っています。国家・軍事・政治・経済・教育・医療・福祉・環境などのどれ一つをとってみても、こなごな島の砂漠の怖さがあります。裸の魂はそこでの遍歴を避けることは出来ません。
『神の家族 – 光明園家族教会85年記念誌』(1998年5月、日本基督教団光明団光明園家族教会、津島久雄発行)の寄贈に与りました。ハンセン病に国家が「終生強制隔離」の政策を取る中で、魂のいやしを求めて施設の中で歩んできた教会の歴史の記録です。今は岡山県の国立療養所内にあります。
徹底した差別と排除の状況で、なお育まれている自分自身(アイデンティティー)と共同性を「神の家族」と表現しています。
巻末に資料として「ハンセン病を患われた方々への日本基督教団東中国教区の謝罪声明」及び「ハンセン病に関する日本基督教団の謝罪声明」(共に1998年)が付されています。ここには89年にわたる日本の「癩(らい)」政策が、富国強兵の国家政策の一環であることを見抜けないまま、それに知らないうちに加担をしたことの教会の罪責が「あまりにも遅すぎましたが」と表明されています。
逆に、家族から賀状の送付を拒否されながら、家族のために独り祈りつつ、賀状を出さないことが
「むしろ今年の正月もほっとした思いで迎えたであろう両親の顔を想像する喜びの方が深いと思うのです」(黒沢小夜子 同書 p.93)
と語る文章には、現代のこなごな島を脱出するぺツェッティーノを重ねる思いでした。
「社会が液状化し、砂のように溶け始めると、誰かが踏み止まって、砂になっていく人々に、人と人とはどのように結びついているか、伝えるものだ。結びつきのなかから、砂になりかけた人は自分の生きる方向、希望、感情を取り戻していく。阪神大震災の後、社会との繋がりを失いかけた人びとと共に生き、共に泣き、怒り、苦しみ、そのなかから生きることの意味を伝えていった人……とりわけ田中健吾さんは下中島公園避難所を支えただけでなく……一連の不安に杭を打ち、不安の感情を希望と信頼に固めていった。」
これは『人と人をつなぐことから − 阪神大震災被災者の記録「下中島公園北ニュース」縮刷版、1998年6月』の一節です。
この文を野田正彰氏(文化精神医学者)は「震災後に行政と心ない強者が加えた負荷をはねかえした集団の成熟さを教えてくれる」と結んでいます。
人と人とをつなぐ働きを、聖書は根源的には「神のわざ(創造・救済・聖化)」と告げています。
光明園家族教会のことも、下中島公園のことも、その確かな現実だと私は信じます。
地上の教会は、その事実に目を凝らしつつ、その「わざ」に参与し、また証していく役目を託せられているのではないでしょうか。こなごな島の力は強くとも、それを恐れることはありません。
むしろ、神のわざに鈍いことが問題なのです。
神のわざの事実の前に、打ち砕かれ、遅ればせながら悔いる心を大切にして参りたいと存じます。

