詩編100編について(1995 週報・待降節・本日の説教のために)

1995.12.10、神戸教会週報、待降節第2主日

(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん62歳)

礼拝説教:詩編 100:1-5、説教「生活の時・人生の時」


 この美しい詩は2部に分かれる。

 1節後半から3節、4節から5節である。


”全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。”(詩編 100:1-3、新共同訳)


”感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。”(詩編 100:4-5、新共同訳)


「喜びの叫びをあげよ」「御前に進み出よ」、そして「主の門に進み、主の庭に入れ」の命令で始まり、それに続いて命令の理由が述べられている。

 詩全体の内容は「主はわたしたちを造られた」と創造者なる神への、そして「主の真実は代々に及ぶ」と歴史を導く神への、讃美と感謝である。

 文学類型は「讃美の歌」であり、礼拝のため人々が神殿の門から前庭に入る礼拝用に作られたものであるかも知れない、とは研究者の言葉である。

「行列詩編」で95編前半と似ていることを強調する人もいる。


 1ー2節で繰り返されているのは「喜び」であり、「喜び」は詩編全体の基調であるから、最も詩編らしい詩編である。


”全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。”(詩編 100:1-2、新共同訳)

 この詩は神の現在(共にいますこと)を歌っている。

 旧約には、神の啓示を歴史の出来事として強調する預言者の働きがある。

 それとは別に、神殿における礼拝の祭儀を大切にして、神が生きて今働き給うことを、礼拝の中で人々に深く体験させた祭司の宗教の伝統というものがある。

 この詩は、後者の伝統の重さを示す詩とも言える。

 2節の「仕え」は「礼拝の行事を執り行う」と狭義に解釈する人がいる。祭司の伝統からは当然だが、全生活をもって神に仕えることを含意していると理解するのが妥当であろう。


 3節「ヤハウェこそ神である」という定型表現は、申命記(4:39、列王記上 18:39)の伝統に基づく。


”知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。”(詩編 100:3、新共同訳)


”あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。”(申命記 4:39-40a、新共同訳)


 また第二イザヤの影響が見られる(イザヤ 45:21、48:12)。

”意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ 以前から述べていたかを。それは主であるわたしではないか。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は わたしのほかにはない。”(イザヤ書 45:21、新共同訳)


 申命記や第二イザヤの信仰の伝統というものは、「わたしたちは主のもの、その民」という旧約の「契約」の思想に深く立つ。

 また「主に養われる羊」という表現も長く深い信仰的伝統を示している(詩編 23:1、74:1、79:13、95:7)。

”主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。”(詩編 95:7、新共同訳)


 5節の「とこしえ(”オーラーム”)」という言葉に注目したい。

”主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。”(詩編 100:5、新共同訳)


 これは「限界づけられない時間」を意味し、ヘブル的思考特有の言葉である。

 語源は「覆う・隠す」の意味を持つ「”アーラァム”」に由来し、我々の眼や表象が眩んで見えなくなるような「非常に遠い時間」を意味する。

 遠い過去にも、遥かなる未来にも用いられる(ボーマン)。

 長い時間ではない。素朴に限界づけられない時間である。

 生活の時間は限られている。

 しかし、人生には長くても短くても、限界づけられない時間が許されているのではないか。

(1995年12月10日 神戸教会週報「本日説教のために」岩井健作)


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