詩編37編について(2)(1995 週報・震災から9ヶ月・本日の説教のために)

1995.10.15、神戸教会週報、聖霊降臨節第20主日

(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん62歳)

詩編 37:23-40、説教「地を継ぐ者」

 詩編37編は「この世の悪に対して、信仰者はどう対処するか」という問題を扱っている。

 前回も述べたように、老人が若者に教え諭す「いろは歌」であり、背景にはイスラエル民族が経験してきた多様な捉え方が重層的に取り入れられているので、ここから直截な答えを引き出すことは出来ない。


 箴言の影響はこの詩の随所に見られる(「引照つき聖書」の参照をお勧めします)。

 そこに表された因果応報の考え方によれば、悪そのものは神が置かれたもので、必ず断ち滅ぼされるのだから、悪に心を悩ませるな、悪に対して心悩ますこと自体が神を信頼しないことである、悪に心悩ますことは神に対する反抗であり、人間の自己主張である、という。


 他方、この詩には、預言者の影響があり、悪への対処は、人間には不条理であるが、終末的な期待を神に置き(13節)、待つこと(7節)が大事だ、と悪そのものの解決には言及していない、と見る研究者もいる。

 色々な信仰的考え方、対処の仕方、あるいは思想が重なり合っている所が、この詩の特徴であり、良い所であると思う。

 私はどちらかといえば、後者の考え方に心惹かれる。


”主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。”(詩編 37:23-24、新共同訳)

 ここには、悪への戦いが相対的なものであっても嘉(よみ)せられている。

 歴史を生きる者への大いなる励ましがある。

 悪の問題は、始めから神が解決する問題として神学的観念化に押しやってしまうと、悪に悩む人との苦しみの繋がりは生まれない。

 この詩の5節・6節を基に作詞されたというパウル・ゲルハルトの讃美歌290番も、「おもい乱るる わが心よ……しずかに待て」「悩みし子らは幸なるかな」と、歴史の途上を生きる者への励ましがある。

”あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい あなたの正しさを光のように あなたのための裁きを 真昼の光のように輝かせてくださる。”(詩編 37:5-6、新共同訳)


 歴史における悪の問題は、常に新聞紙上に事欠かない。

 権力による支配構造の中で、人はそれぞれ相対的であっても悪と対処しなければならない。

 それぞれの立場で悩み、なお勇気を持って悪に対処するかどうかは大事である。


 例えば、沖縄県知事・大田昌秀氏(知事在任:1990年12月10日 – 1998年12月9日)は、米軍用地の強制使用に向けた代理署名を公式に拒否した。

「県民が基地負担で差別感を持っているなら、行政はこれにこたえなければならない」(沖縄タイムス 1995.10.4)。

 1991年には「県政の混乱を避ける」と署名をした。

 少女暴行事件とその背景の悪に、沖縄の人々の怒りがあってのことであろうか。

”悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。”(ローマの信徒への手紙 12:21、新共同訳)

(1995年10月15日 神戸教会週報 岩井健作)


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