『為ん方(せんかた)つくれども希望(のぞみ)を失わず − 藤村透・闘病の記録』より(1)(1993-95 往復書簡)

1995年12月15日発行、藤村洋編著

(神戸教会牧師、健作さん62歳、1994年から震災直前までの出来事)

教会の支え

 入院の始めから祈り励まして下さった岩井牧師は、透が転院するとすぐ、夏の休暇の旅先からはがきを送って下さった。先生には15日の発作のことはお知らせしてあったので、状況の急変を気にしながら旅に出られたのだった。岩手に宮沢賢治の足跡をたずねたあと信州から出された2枚のはがきを読んで、透は「岩井先生からの便りには何度も涙する」と書いている。

 おそらく先生が信州で野尻湖を訪れたことを読み、発病する前の連休に私たちも一緒に飛騨から野尻を訪れ楽しく遊んだことを思い出していたのであろう。(本書の中のカットはこの旅で玲子がスケッチしたものである)

 この日、透はワープロ4枚の長文の手紙を先生に宛てて出している。

 9月3日、先生は名古屋まで出かけて病室に透を見舞い、たまたま回診中の小寺先生にも会って病状を尋ねて下さっている。おそらく医師だけではなく牧師のケアも必要な段階であることを理解されたのであろう。それからはままにならない訪問の代わりに手紙、はがきによる激励、慰めが頻繁に先生から送られてきた。

 先生から頂いた手紙の総数は40余通に上るがその大半は名古屋に転院してから頂いた。終わりの頃には透が「この頃毎日はがきを頂いていますが、どうぞ無理をなさらないで下さい」とお礼に書いている。そしてこのはがきがたいへん心のこもったものであった、シリーズもので写真を切り抜いてはがきに貼ったものであるが、ひとつは神戸の風景スナップそれもふとした小道、さりげない街角などをご自分で撮られたもの、次は教会内部シリーズで母子室のレリーフ、階段の手すりなどの写真、そしてなによりも感激したのが電車シリーズ、いろいろな電車の走っているところを写したもののほか、電車の中からの沿線の風景を写したものがあった、電車の好きな病める者を慰めてやろうと、60歳の紳士がマニアの若者のように電車の先頭に立ってカメラをかまえている情景を想像したとき有り難さに目頭があつくなった。岩井先生のはがきはまたいつも心にしみる文章と聖書のことば、そして必ず「和代さんによろしく」が書いてあった。


9月22日(教会礼拝堂のプラケット•ランプの写真によせて)
 教会堂のプラケットは、武藤誠先生が金婚式も寄贈されたものです。イタリアでやいたベラガラスを用いています。今この会堂で結婚式をしたご夫妻では、一番武藤さんがご年長でしょう。「健やかなるときも病めるときも」という言葉の重みを透兄ぐらい重く味わっておられる方は少ないと思います。どうか和代さんを大事にしてあげて下さい。ではまた。


10月17日(諏訪山公園から港をみた風景の写真にそえて)
 諏訪山公園からの写真です。木々が春へのエネルギーをたくわえていることを思います。冬に耐える時を含めて。昨日の日曜、御尊父から移植の動きが始まったとの報をきき、喜んでいます。耐えねばならないプロセスもあろうと存じますが、「春」を待ちます。どうか1日1日を励んで下さい。神のみ手が身近であるように祈っています。

 神のなされることは皆 その時にかなって美しい。
 神はまた人の心に 永遠を思う思いを授けられた。
 それでもなお、人は神のなされるわざを
 初めから終わりまで 見きわめることはできない。
 (旧約聖書 伝道の書 3:10-11)


 このような先生の手紙に対して透は次のようなお礼の手紙を9月27日付で出している。病気に対する思い、沢山の支えに対する感謝そして教会との連なりに思いをいたした文章である。


岩井先生

 たびたびお便りをいただき、ありがとうございます。
 いつまで続くかと思われた猛暑も去り、「秋がやってきた」と、TVその他が報じています。確かにこの部屋も窓を開けると涼しい風が入るのですが、感染予防上、窓を開け放す訳にはいきません。そこでほぼ終日締め切りなのですが、そうするとこの部屋は南向きで、間口が広いので温室のようになり、実は今でも昼夜頻繁に冷房の世話になっています。私にとって「秋」はもう少し先のようです。

 体調は、牛の歩みの如くゆっくりと回復しています。口と喉の粘膜障害も徐々に回復し、食べるものも量は少ないものの形あるものを摂ることができるようになりました。食事量の回復に比例して体力の方もかなり復活しました。ただ、肝心要の白血球値だけは、30日以上のG-CSF(白血球増殖刺激因子)投与にもかかわらず横ばいのままで、あいからわず感染予防に注意が必要な状態です。当面は上がってくることを期待しての様子見ですが、その後どういう手段をとるのかは、まだ分かりません。

 ただ、いつも通り白血球値が低いこと自体は、体調になんら影響を与えないので、自分の感覚としては日々徐々に元気になっていく分、希望が持てます。体力は気力に通じますから。
「教会内部シリーズ」は、母子室の「ハトとぶどう」は知りませんでしたが、あとは馴染みのポイントですね。「ロビーから礼拝堂ギャラリーに登る階段手すり」は、丁度礼拝が終わって何となくうろうろするロビーの一角にあり、幼少の頃から、先の丸い部分につかまっていた覚えがあります。あの丸い部分はきっと延べ何千人もの人々の手を知っているのでしょう。

 昨年初めて熱を出したのが9月13日でした。もうそれから1年が経ちました。入院(10月14日)からも、間もなく1年になります。色々ありましたが、やはり過ぎてしまえば早いものだ、という思いがします。それと共に、1年よく生きてこられたという思い、1年もの間、和代と家族がよく身体を壊さずに支えてくれたという感謝の思い、そして入院から1年も経って、しかも名古屋という遠隔の地にありながら、訪ねてくれる人がおり、応援をしてくれれる人々がいることに対する感謝の思いがあります。

 1年後、来年の今頃は自宅に戻りリハビリに励む、あるいは、あわよくば社会復帰をしていたいな、と切に思います。

 最近、1日1枚ずつ葉書を出していただいているようですが、お忙しい中、決して無理はなさらないで下さい。私の方は、今は気力も回復し、毎日和代に支えられて元気でいますので…。また。

9月27日 藤村透


 先生はご自分で手紙やはがきを出されるだけでなく、教会のさまざまな集会の折に皆にすすめて寄せ書きを作って送って下さった、婦人会、教会学校の教師会など沢山の方々が透のために祈りを込めて一言を書いて励まして下さった。教会の交わりはこのほかにもさまざまな波となって名古屋の透をつつんだ、個人的にもなんどもお見舞い状を下さったり、名古屋まで訪ねて下さった方の中に鈴木道也兄がおられた、兄は透がいた神戸中央市民病院で前年の秋に奥様をガンで亡くされていた。透を囲む私たちのことが他人事ではないお気持ちであったのであろう。

(上掲書 p.171-176)


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