自分を見つめる

神戸教會々報 No.141 所収、1994.7.17

(健作さん60歳)

人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。  伝道の書 3:11


 この春、キリスト教主義のK大学のフレッシュマンのクラスで「自分を見つめるー人間観の転回と成熟」と題して話をするように求められました。

 とっさに心をよぎった聖書の物語がありました。

 それは創世記37章から始まるヨセフ物語です。

 この物語はこう書き始められています。

「ヨセフは17歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた」。

 17歳にもなっているのに兄弟の悪口を父に告げるヨセフの未成熟と、「甘え」と「過保護」の時代の中の大学生のイメージがどこか重なるような気がしたからです。

 でもヨセフ物語の結末は「人間観の転回と成熟」という副題そのままに、神の目から見た自分の人生のすべてを受容して生涯を終わるという壮大なものです。


 ヨセフ物語の面白さは各人に読んでいただくこととして、私は当日、アメリカのSF作家ル・グウィンの『影との戦いーゲド戦記』(岩波書店)のお話をしました。もちろん、このお話はファンタジーの世界のことです。

 主人公は血気にはやる高慢な若者で名前をゲドといいます。故郷の島で魔法使いの修行に励みますが、尊敬する師の意志に反して、ローク島の魔術の学院に修行に出かけます。未熟さにもかかわらず同僚の学生への傲りと妬みの心から決してやってはならない術を乱用して、死の影を呼び出し、あやうく一命を落としかけます。学院長が身代わりに死を遂げることで命ながらえたゲドは、死の影に追われる身となり、何度も危ない場面に出会わせます。しかし、やがて故郷の師と仰ぐ魔法使いの言葉に従って、ある時を境に逆にその影を追うようになります。

 追いつめていった世界の果てで、影との死闘をいたします。そうしてその影がゲドと同じ名を持つゲドであることをつきとめ、勝利でもなく敗北でもなく、自己の名をになう影を自ら呼吸して一体となることによって、ゲドは初めて全き人間になった、というお話です。

 死の影があらわれるところはゾクゾクしながら読んだといったら、友人から、ファンタジーに心動かす童心が少しは残っているのだね、とほめられました。

 ヨセフの物語にしろゲド戦記にしろ、自分を見つめるということはすごく長い時間を要することだということをまず教えられました。

 ゲド戦記で感動的なのは、ゲドが影との戦いのため最後の旅に出るとき、何年ぶりかで出会った友人の魔法使いエスタリオルが、自分の仕事を投げうってゲドに同行してくれるところです。影と戦うことはゲドの問題ですが、そこに友人が寄り添っていて初めてそのわざが成し遂げられるというのは心の温まる場面でした。


 これは若い学生たちには直接関係はないのですが、「自分を見つめる」ということが、連帯的なあり方の中でこそ深められるということをよく語っている文章を思い出します。精神科医・神谷美恵子さんの「配偶者の選択」(『こころの旅』所収)の中に出てくる一文です。

「夫婦とは、他人同志でありながら、いかなる身内よりも互いにありのままの自分をさらけ出すことになる。であるからどんな対人関係よりも自他を深く知る機会がここにある。それは相手の人がらを知るとともに、自分の強さや長所よりも、むしろ弱さや欠陥を思い知る機会でもあろう。相手にゆるしてもらい、助けてもらわねば存在し得ない自分を知るとき、人間はより謙虚になり、他人への思いやりも深くなる」

「自分を見つめる」ということが、第一に時の経過の中で、自分の影との和解の歴史を積み重ねることであり、第二が、共に生きることの関係性の中でなされることであるとすると、第三の課題は何でしょうか。それは、ほんとうには「自分を見つめる」ことの出来ない未完結性の肯定ということではないでしょうか。

 伝道の書の言葉がそれを語っています。

「わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」

 自分を見つめることは自己のわざを離れて、そこから自由になるという逆説性をもったことなのだと思います。あたかも、森の奥深く樹齢を刻む一本の樹のごとく「神のなされるわざ」に服することではありますまいか。