霧のナザレ(1993 神戸教会)

神戸教會々報 No.140 所収、1993.11.28

(健作さん60歳、牧会36年目、神戸教会牧師16年目)

主よ御国がきますように。 ルカ 11:2


 パレスチナに行きませんか。

 長年「パレスチナ問題」に取り組んでいる大阪の桑原重夫牧師に誘われた。

 別館建築中であり、私事を考えても妻は娘の家庭を応援しなければならず、恒例の夏の休暇とはいえ、躊躇はあったが、周囲の了解を得て思い切って出かけることにした。

 8月11日(水)から20日(金)までの10日間、「教団パレスチナ訪問団」を名乗って、高校生から60代までの老若男女11名。

 訪問先は、中東キリスト教協議会のある東エルサレムの聖公会セント・ジョージ教会を中心にして、ベツレヘム、エリコ、死海、ガザ、ナザレ、ガリラヤ湖周辺、カナ等であった。

 受け入れについては、聖公会のカフィーティ司祭(エルサレム)、アッサール牧師(ナザレ)、パレスチナ芸術家協会のデュエイク氏、アカリ氏、ユーセフ氏にお世話になった。

 日本基督教団は社会委員会を中心に、イスラエル政府側寄りで行われる従来の「聖地旅行」を批判しつつ、中東基督教協議会との交流を主とした「聖地旅行」を対置させていくということで、これまで3回の積みあげが行われてきた。このたびの旅行は第4回であった。

 特にガザ地区に入れたことは貴重な体験となった。

 1948年イスラエル建国以来、約三百数十万のパレスチナ住民は居住地を追放された。

 アラブ系パレスチナ人の村々にはイスラエル政府によるユダヤ人入植地が、世界のシオニストによるユダヤ基金をもとに建設され、既成事実となって、二つの民族の共存国家の可能性を一層少なくしてしまっている光景をいたるところで見た。


 ガザは最も苛酷な支配がなされているところで、子供たちの抵抗運動インティファーダ発端の地である。

 ジャバリヤ難民キャンプは軍の監視塔に囲まれ、劣悪な生活状況であった。

 訪問したのはアハリ・アラブ病院。聖公会経営で170床。

 ケースワーカーのモハメッド・アリ・エル・ナーカ青年が案内してくれた。

 美しい女性の事務長さんは、イスラエル兵の襲撃による負傷者から摘出したゴム弾やプラスチック弾、小銃弾の薬莢を示し、この病院のガザでの役割の大きさを語り支援を訴えられた。

 教団は以前から支援を行ってきた。

 神戸教会もその訴えに応えて以前から献金を送ってきたが、あまりにも酷い実状に一層祈りをもって取り組まねばならぬとの思いを深めた。

 旧ガザ市街を案内されたが、パレスチナ解放運動の活動家がいるという理由で、ヘリコプターからロケット砲で急襲され破壊されてしまった集合住宅を見学した。

 廃墟の中で、住民の生活が営まれているのが痛々しかった。

 ガザは元来、柑橘類の生産地であったが、今は水資源の利用権を奪われ、漁業権を奪われ、検問時間に合わせて帰らねばならない出稼ぎ建築土木労働が生活の資になっているとのことであった。

 日本に帰って、PLOとイスラエルの暫定自治協定調印を知ったが、ガザに関する限り、民衆の現実の生活が変わらないと、何の進展もないとの思いを深くした。

 ニュースでは、イスラム民族主義者(ハマス)のゲリラが強くなっていると報じられているが、またそれだけでは解決しない面もある。

 エルサレムには5日間滞在し、旧市街を何回も歩いた。

 夜は、パレスチナ画家のデュエイクさん、アカリさんの家庭に招待を受け交流をもった。

 アラブ語を使うイスラムの人の家庭の経験は初めてである。

 宗教は違っても解放への思いが一つである時、どんなに心のつながりが大きいかを体験した。


 ナザレは美しい街だ。

 マリヤの泉の教会や受胎告知の教会へ巡礼者の訪れる聖地。我々は闊達なアッサール牧師夫妻の歓迎を受け、その紹介でフランス系のカトリック修道院の美しいホステルに泊まった。

 この街も、山の高い所にはユダヤ人入植者の高層ビルが立ち、山の下のオールドナザレはアラブ人街である。

 みやげ物店では「ありがとう」と日本語を店員が使っていた。聖地旅行者は多いが、アラブ人の聖公会の教会を訪れ、ここの問題を共有してくれる人はないとのことだった。

 それ故か、大歓迎を受けた。

 そうして、来年3月、世界祈祷日にアッサール牧師を招くことにもなった。

 イエスがここで生活したと思うと、何かなつかしい土地に思われ、いと杉が霧にかすむ窓辺の風景をスケッチした。

霧のナザレ

(関連)エルサレムにて

(関連)東エルサレム、聖公会セント・ジョージ教会

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