1992.10.11、神戸教会 週報
聖霊降臨節第19主日・伝道献身者奨励日
(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん59歳)
この日の説教:ネヘミヤ記 4:1-6、ペテロの第1の手紙 4:7-11
「生涯のささげもの」岩井健作
自分の生涯の終わりに、神に「生涯のささげもの」と応え得るものは何であろうか?
今朝の聖書日課は「生涯のささげもの」のテーマのもとに、次の4箇所の聖書テキストをあげている。
詩篇 90:13-17、ネヘミヤ記 4:1-6、第一ペテロ 4:7-11、マタイ福音書 25:14-39。
今日はネヘミヤ記に目を留めたい。
旧約聖書には”2冊”の歴史書がある。
第1は「モーセ五書」と「前の預言者」とを合わせたもの。すなわち、創世記から申命記までの五書と、ヨシュア記・士師記・サムエル記(上下)・列王紀(上下)までを合わせて編集された第1の歴史書である。
この広範な古代イスラエル民族史とは別に、この第1の歴史書が完結した約150年後に、この第1の歴史書を主要な資料として著作された第2の歴史書が「歴代志・エズラ記・ネヘミヤ記」である。
エズラ記・ネヘミヤ記は元来一巻の書物であった。
ペルシア帝国のクロス王によって、バビロン捕囚から解放されたイスラエル民族の、エルサレムへの帰還、神殿の再建(第2神殿)と、エルサレムでのエズラ(帰還の指導者、学者で祭司)と、エルサレムでのエズラ(エルサレム城壁の修築を行なった総督)の活動が記されている。
本日の聖書箇所、ネヘミヤ記4章1〜6節は、帰還民はサマリヤの総督サンバラテらの妨害にもかかわらず、困難な中で、エルサレム城壁の修築を行なったという物語の書き出しの部分である。
”サンバラテはわれわれが城壁を築くのを聞いて怒り、大いに憤ってユダヤ人をあざけった。彼はその兄弟たちおよびサマリヤの兵隊の前で語って言った、「この弱々しいユダヤ人は何をしているのか。自分で再興しようとするのか。犠牲をささげようとするのか。一日で事を終えようとするのか。塵塚の中の石はすでに焼けているのに、これを取りだして生かそうとするのか」。またアンモンびとトビヤは、彼のかたわらにいて言った、「そうだ、彼らの築いている城壁は、きつね一匹が上がってもくずれるであろう」と。「われわれの神よ、聞いてください。われわれは侮られています。彼らのはずかしめを彼らのこうべに返し、彼らを捕囚の地でぶんどり物にしてください。彼らのとがをおおわず、彼らの罪をみ前から消し去らないでください。彼らは築き建てる者の前であなたを怒らせたからです」。こうしてわれわれは城壁を築いたが、石がきはみな相連なって、その高さの半ばにまで達した。民が心をこめて働いたからである。”(ネヘミヤ記 4:1-6、口語訳)
ネヘミヤは、純粋なヤハウェ信仰と具体的行動力を結びつけてこの難局を越えていった。
そこには、出エジプト記と類似する神の選びと導きに対する信仰が見える。
6節に「民は心をこめて働いた」とある。
城壁と神殿はかくして形を成した。
歴史を顧みれば、第2神殿はユダヤ教の固定化に結びついてゆく。
形骸化するから形は止揚されねばならない、とは一つの逆説であり、形に安住してはならないとの警告である。
しかし、信仰表現の場や形のために労苦することは、美しいことである。
児島昭雄写真集『日本の教会堂 ー その建築美と表情』(日本基督教団出版局 1992年9月)が出版された。
個性ある103の教会が収録されている。
その建築美の背後には、純な信仰と「生涯のささげもの」がなされていることを、各ページ毎に知らされる。
例えば、倉敷教会。
「当初、ヴォーリズによってスケッチが作られたが、その後、西村伊作に受け継がれ、彼が全工事を32,000円で請け負って1923年に完成、献堂された」とある。
また、天草の大江教会にも胸を打たれる。
(1992年10月11日 週報掲載 岩井健作)