1990年12月23日、待降節第4主日・クリスマス礼拝、神戸教会
(受洗2名、転入1名、聖餐式)
(神戸教会牧師13年目、牧会32年、健作さん57歳)
マタイ 2:1-12、説教題「ヘロデの戦略・神の戦略」岩井健作
”「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。…”
(マタイによる福音書 2:2、口語訳)
マタイ福音書の「イエス誕生物語」を読む時、この物語の登場人物の誰に自分を同定するかによって、物語のもつ使信としての響きは変わってくる。
ヘロデ王に同定してみよう。
この王の王位は、ローマ皇帝よりのものであるから、上には丁重、下には残忍であったという。
ヘロデ的人間関係の持ち方は我々にもないとは言えない。
彼は人生の最終的「生と死」の意義をどこに見出していたか。
おそらく国家や社会に認められるための業績をあげるという短期目標に手一杯で、根源的なことなど考える暇がなかったであろう。
生死に関わる事柄に関しては、彼には”御用”祭司や”御用”律法学者がいた(マタイ 2:4)。
宗教を自己の安定に利用するのは、権力者の才能の必須の要件であるかもしれない。
(日本人の平均的宗教観はどうか、を思う。)
それにも関わらず、彼は「不安を感じた」(マタイ 2:3)という。
”ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。”(マタイによる福音書 2:3、口語訳)
ここには、この聖書の使信としての響きがある。
不安を生の根源へと問い詰めて実存的な問いとするのか、それとも現実的な政治レベルのこととして対処するかは、その人の日頃の生き方に関わっている。
ヘロデは後者の方向へ生きた。
このモチーフ(動機)は(ヘロデ王の命令による)「幼児虐殺物語」へとつながる。
そこにはヘロデの戦略がある。
博士(占星術師)たちに同定してみよう。
物語の中で彼らは”異邦人”である。
異文化の者、旅人である者が、《根源的救い(イエス)に出会う》ところに、マタイがこの物語に託した使信がある。
このことは、二面性を持つ。
我々の内なる異邦人性を軸とするならば、同化を強要され、差別され、孤立・異質を味あわされるところに「救い」との出会いの逆説的希望がある。
ヘロデに組み込まれるユダヤ人側に身を置いて博士を見るならば、「救い」とは何でないか、への警告があるであろう。
ヘロデ的な「道」への決断的訣別(けつべつ、「他の道を通って」12節)なくしては、「救い」への出会いはない。
”そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。”(マタイによる福音書 2:12、口語訳)
博士たちは旅人であった。
旅を導く星の話も、彼らが携えた「宝の箱」の話も、古来、数多くの寓意的聖書解釈を生んだ。
それは解釈史の彩(いろどり)としておこう。
それよりも物語がベツレヘム(ミカ書5章からの引用)と「救い主」誕生の場所を示しながら、特定の「家」を星の導きに委ねているのは、後続の物語との関連ではあるが、深い示唆がある。
「啓示と信仰」、「神の救済と人の応答」、「恵みと信従」等の神学的テーマからすれば、イエスとの出会いは、個々人にとっても旅の途上の導きに属する。
そこをどう生きるかは、各人の問題である。
そこは恵みの豊かさへの神の戦略か。
(1990年12月23日 神戸教会週報、岩井健作)

