1990年11月23日 日本基督教団兵庫教区主催、
第5回「障害者差別問題」シンポジウム 開会礼拝説教
マルコは当時よく使われていた「仕える人」という言葉を、ある限られた社会的人間関係の中だけの意味ではなくて、もっと全体的な社会関係の中に広げるために「奴隷になれ」「僕になれ」と言い直しているのです。例えば日本のある会社で社長さんが社員のことをよく考えるという意味で「仕える人」という言葉が使われたとしても、アジアのある国に抑圧され、日本企業から収奪されている人から見ればそれは本当にイエスが言った意味で「仕えている」ということにはならないでしょう。だから「仕える」ということを「奴隷になれ」と言い換えたその方向性が大変大事なのです。「奴隷となれ」ということは自分の生活の経験を超えて奴隷の現実へと自分の意識を投げ込んでいくということです。「仕える人」というのはギリシア語の”ディアコノス”の翻訳ですが、本来はテーブルのお給仕という意味です。それから自主的に世話をする意味に用いられましたが、その自主的な世話の在り方をさらに社会的に差別をされている者にまで広げていく方向がここでは大事だということです。それが「奴隷になれ」ということです。それはマルコ福音書の10章の文脈を読んでいただくとよく分かります。広げていくということは想像力を持つということです。私たちは差別されている側から問題提起を受けることがあります。それは自分の生活経験のどこかでそれを受けとめて広げていくことができるという、ある意味での信頼関係の中で問題提起がなされていると思えます。問題提起というのは受ける側にとっては確かに辛いことであり、厳しいことであり、裁かれるという面がありますけれども、それは全面否定の批判ではなくて批判することによって私たちの中にある大切なものを引き出すということであると、私たちはしっかりと考えなければならないと思います。
マルコ福音書の著者は、ここで当時の教会の人を裁いているのではなくて、イエスがあがない主であるという意味を被差別者の現実から据えているのです。本当に多くの人を買い戻してくる、そういうあがないとなられたのだという意味をここで示しているのです。
奴隷(ドゥーロス)という言葉を用いることによって実際に奴隷である人への想像力を促しています。奴隷でない人が奴隷であることを想像することは大変難しいけれども、しかしそっちの方向に想像力を巡らしていきなさいということです。
三木清は太平洋戦争下で軍部に捕らえられ獄死した哲学者です。彼は『人生論ノート』の「利己主義」という随想の中で「利己主義者が非情であると思われるのは彼に愛情とか同情がないためであるよりも、彼に想像力がないためである」と書いています。想像力は人生にとって根本的なものだと述べています。
ドロテー•ゼレという神学者は『キリスト教倫理の未来』という本の中で「人間の上下関係を破っていく倫理の中心に想像力を据えなければならない」と書いています。想像力というと何か難しいことのようですが、言い換えれば、相手の側に立つということです。ピリピ人への手紙2章6節〜8節には「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(口語訳)とあります。これは古いキリスト論です。この中の「僕のかたち」には「奴隷」という言葉が使われています。この「奴隷」という言葉をマルコはもう一度社会関係全体の中によみがえらせたのです。これがマルコ福音書の一つの特徴であります。
イエスはそのように生きられた、そしてイエスがその仲間になりその傍らにあった人々へ、それは差別の現実でありますが、そこへ私たちの意識の中のもう一人の自分を働かせることができるならば、そのことがイエスに従っていく、生きることへの歩みだということであります。少なくとも「かしら」になりたいという上昇思考を沈静させ、打ち砕き、差別問題と被抑圧者へ私の中のもう一人の自分を繋ぎ止めて下さる方がイエスであるということに、もう一度心を向けたいと思います。
最後に最近読んだ書物の中で出会ったお話をして終わります。路上で酔っぱらいが小学生を打ち据えているので警官が取り押さえてみると、その男は父親で「親が子を折檻して何が悪い」と喚いたそうです。子どもは骨折していて救急車で病院に運ばれました。警官が「どうして殴られるはめになったのか」と尋ねますと、小学3年生のその子が「お父ちゃんは淋しいんだよ」と言ったという話です。母親が蒸発してから酒を呑むようになり、酔っ払って暴れるようになったらしいのです。骨折するほどの痛みの中で父親の心中を察することができたことについて、この話を紹介している看護婦のUさんという方は、この小学3年生の子は、もう一人の自分を暴れている父親の中に入れることができたのだと言っています。そしてもう一人の自分を患者の中に入れることができるならば、看護婦の務めは本当に務まるのだという共感の心得というものをこの子どもから学んでいます。
天皇制の醸し出す、上下意識・差別意識に巻き込まれないで、そこから解放されていくために、私たちは覚めたもう一人の自分を呼び覚まされて、悲しみの現実に共感の心得を持つことができるようにと祈り求めていきたいと存じます。
<祈り>
神さま、差別の現実を少しでも変えていく力を私たちにお与えください。差別ゆえに悲しいことがたくさんあります。その悲しい出来事の中へ私たちの感受性をもって入っていく、その心を増し加えてくださるようにお願いします。天皇制廃絶の長い道のりへの一里塚に私たちもまた参加することができますように力づけてください。この祈りを主イエスの御名によってお捧げいたします。アーメン。

