1989年12月17日、待降節(アドヴェント)第3主日
(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん56歳)
ルカによる福音書 7:24-35、説教題「先駆者」岩井健作
”『見よ、わたしは使(つかい)をあなたの先につかわし、
あなたの前に、道を整えさせるであろう』”
(ルカによる福音書 7:27、口語訳:旧約聖書マラキ書 3:1からの引用)
バプテスマのヨハネとイエスとの関係を述べているこの聖書の箇所(ルカ 7:24-35)は、古来教会暦では待降節のテキストとして選ばれているものの一つです。
バプテスマのヨハネは、イスラエル民族の預言者的伝統を受け継ぐ宗教的覚醒運動の指導者でした。
他の福音書を見ると、ヨハネは預言者エリヤの再来だ(マタイ 11:14)とありますが、ルカは、異邦人読者を考慮してか、それを省いてしまっています。
「バプテスマのヨハネの教団」はヨハネをエリヤだと主張していた可能性があると言われ(荒井献氏)、初期の教会では、ヨハネとイエスとの関係について論争があったと思われます。
そして、ルカはヨハネに対して「預言者以上の者」(ルカ 7:26)とのキリスト教的位置づけを行なっています。
”では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。”(ルカによる福音書 7:26、口語訳)
「預言者以上の者」とは、メシア(救い主)の直接的先駆者として、メシアと切り離すことの出来ない存在だという意味です。
「ヨハネとイエスの関係」(ルカ 7:24-30)に続く章句は、「時代の反動」(ルカ 7:25-35)が述べられます。
パリサイ人や律法主義者などに代表される人々は、ヨハネもイエスも拒否しました。
一方は、禁欲主義者なる故に、他方はその自由な振る舞い(34節)の故に。
しかし、「民衆、また取税人」(29節)は「知恵の子」(35節)として、両者を受け入れる知恵を示しているところに注目すべきだ、と述べられています。
二つのことを学びたいと存じます。
一つは、ヨハネへの関わりとイエスへの関わりの共存ということです。
荒野と街、断食と宴席、禁欲と自由、求道と信仰、先駆者とメシア、時間と永遠、の共存ということです。
二つの事柄は、同時に共存していながら、体験的には陰と光、裏と表のように、そのどちらかに身を置く以外にない関係です。
預言者や先駆者の真理への激しさ無くして、救いによる自由や喜びは体得されないでしょう。
神の前に独り立つ厳しい自覚なしでは、共に生きる喜びもあり得ないでしょう。
ヨハネの先駆によるイエスの来臨があります。
もう一つは、「知恵の子」と「今の時代の人々」(31節)との対比です。
救いを受け入れる「知恵の子」性と「今の時代の人々」性は、私という一人の人間の中に、あるいは教会や教団の中に、あるいは様々な団体の営みの中に、同時に宿っています。
どちらの部分を大切にして生きるのか、どちらを補完するのか、それが主に従う決断というものです。
すでに救いの光は来ています。
一歩後退や失敗にも悲観せず、また恵みの中を前進するところに、キリスト者の生活があります。
(1989年12月17日 説教要旨 岩井健作)




1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)