いくつもの葬儀(1989)

1989年2月10日発行「基督教世界」掲載

(神戸教会牧師12年、健作さん55歳)

 そのころ、田舎へ行くといえば藤木(群馬県富岡市藤木)のひいばあさんの所へ行くことだった。竹藪、栗の大木、桑畑の彼方に浮かぶ山々。上州らしい風景と古い庄屋造りの家に独り住むばあさんの笑顔は幼少の懐かしい思い出である。ばあさんの葬儀のことはほとんど覚えていない。小高い山腹の墓所の石塔の文字の朱塗りは、生きている人の名前で、これがとれると人は死ぬのだ、と誰かが教えてくれた。不思議な思いがした。そんな記憶がよみがえる。就学前だったと思う。

 相野田(群馬県富岡市)の曽祖父の葬儀は断片的に覚えている。大きな養蚕農家は参列者で溢れていた。子どもの僕は2階に昇る階段にあがって全体が眺められる所にいた。前方正面中心に老牧師がいて、大人たちが厳粛な声で讃美歌を歌っていたことが妙に心に残っている。今『安中教会初期農村信徒の生活』(松井七郎著、第三書館 1981)を見てみると、僕の7歳の時だったらしい。

 少年の頃の葬儀の思い出と言えば、忠ちゃん(田中忠雄氏次男)のことがある。4歳で疫痢で急逝だったと記憶している。まるで花園のように花が飾られていた。明るさが心に残っている。同じ頃、我が家でも生まれて何ヶ月目かの妹百合子が肺炎で死去した。写真がなかったので、田中忠雄画伯に幼な子の顔のスケッチを残していただくことになり、使い走りをしたこと、そして母親というものの嘆きの深さのことが心に残っている。あれから40年近く経ち、神戸の頌栄保育学院が涌井安太郎院長時代に、保育の学舎にふさわしい作品を田中画伯に依頼した折、学院関係者の一人として、来神した画伯と同席した。現在同学院に掲額されている「イエスと幼な子」の絵に至るまでのテーマが話題になったとき、忠君や百合子など、そして、幼くして召された多くの子どもたちへの思いを促すような、いやその子らの登場する絵を描いていただけるものなら、と語ったことを覚えている。人のいのちは持ち物によらない、とは聖書のイエスの譬え話の中の言葉だが、人は長く生き、業績を残したからとて根源的ないのちが全うされる訳ではない。「幼な子」なるが故に「神の国」への「受容」の徴(しるし)たり得るという信仰は、今から思えば少年の日の葬儀への参列により、その原体験を与えられた気がする。

 プロテスタントは言葉の宗教だとも言われる。葬儀も「神のみ言葉」の「現実」が死の現実を凌駕し、「新しい生命・永遠の生命」を伝えるところに、儀礼の根底が置かれる。仏教の葬儀よりもキリスト教の葬儀の方がしんみりしてよい、という人は多い。それは聖書・讃美歌・祈り・説教が皆わかる言葉で語られるからであろう。しかしまた言葉の主観性が人々の思いを支配する怖れへの弁(わきま)えを忘れてはならない。そのことを考えさせられたのはW.Kさんの葬儀だった。かつて富士見町教会で植村正久の牧会の中にあり教会形成を担った女性たちの一人であったWさんは、晩年岩国にお手伝いさんをおいて古い武家屋敷に独りお住まいだった。岩国は河上肇の出身地でもあり、その親戚でもあった著名な文芸評論家の河上徹太郎氏はWさんの子息である。後のことは倅(せがれ)の思いがあるのでしょうからと何も言い残さずに亡くなった。子息とは連絡が取れぬまま親しい人たちの要請で、当然所属教会員への牧師の務めとして、その夜、祈りの式をキリスト教で行った。翌日帰郷した子息は、菩提寺による葬儀を取り計らった。もちろん、その意に従って信仰の仲間たちも参加した。が納得した訳ではなかった。しばらく時を経て、その気持ちも汲み、週報に一文を記した。残された者の気持ちや信仰で葬儀が営まれることも一つの考え方だが、葬儀はやはりその人が生きてきた信仰に沿って営まれるべきではないか、それが受け入れられない風土や人間関係は、ある意味で信仰の挫折を強いることにならないか、という趣旨の文章を書いた。Wさんの友人M.Tさんがそれを子息に送ったらしい。徹太郎氏の母の葬儀についての反論の一文が「週刊新潮」に載っているというのを伊藤義清氏が知らせてくれた。それは「言葉」で締め括ってしまうと氏には理解されているプロテスタントの礼拝堂小空間での葬儀の窮屈さへのいささかの批判が込められていた。氏にとっては「深く大きい」菩提寺とのつながりで、ただ静かに瞑想したかったに違いない。以来、他山の石としている事柄である。いずれにせよ、葬儀はあらゆる意味で、亡くなった者にとっても、生きている者にとっても人間関係の総決算であることには違いない。

 Y.Yさんは、税理士の仕事を通しても岩国の有力者であった。当時の岩国教会の高倉徹牧師とは教会の社会的な責任の在り方をめぐって対立し、他教会へと去ったが、僕の時代には、年老いてまた教会に戻ってきた。役員会の中には信仰の総括を求める声もあったが、再び受け入れられた。死去された折、初対面だった子息・吉田信夫牧師は「罪人が救いに入れられた、そのことだけを語ってくださればよい」と言われた。若かった自分にとって、これは大いなる励ましであった。葬儀の説教で何を語るかに悩む時、中心点を「神の救い」につき集約させるならば、その人の生涯の節々が業績としてではなく、「恵み」の光に照らし出されるものだ、ということも教えられた。

 R.Oさんは卒寿に近い頃「お葬式について」という懇談会を自宅で開いた。招かれ集まってきた人々は、YMCA、朝祷会、諸教会牧師など、キリスト教界の指導者の人々であった。Oさんの主張は「私は、いわゆるお葬式はいたしません」ということであり、その宣言の集いでもあった。生涯の締めくくりが、神への感謝の礼拝で締めくくられないのはいけない、やはり葬儀はすべきだ等々の意見が出されたりなかなか活発であった。しばらくの時を経て、その日は突然訪れた。眠るがごとき枕辺で、夫人と二人で祈った後、言い残されたように行うと言われる夫人の言葉に従い、家族以外には誰にも知らせず、納棺・出棺の祈りをもって、「献体」の大学へとお送りした。後に追悼礼拝を教会で行った。本来であれば「いわゆるお葬式」にかかる費用は、ご夫人の手から教会に伝道資金として献げられた。「いわゆるお葬式」をしないことは、誰にでも出来ることではなく、それもその人の生き方の表れの一つである。生涯の締めくくりである「葬儀」「告別」「追悼」「記念」等々、呼び方は様々であっても、「祈り」を含めて「礼拝」であることだけは間違いないと思う。それを個人個人の瞑想に限りなく近づけてしまうと、いわゆる共同の行為としての「葬儀」(仏式で言えばお経の部分)は短い儀礼となり、後の「告別」(受付、焼香あるいは献花、遺族への挨拶)の部分への参加だけが、お葬式への参列となる。

 吉田信さんの葬儀は、その「告別」の部分がやたらと長い「お葬式」だった。東京ではそのような風潮があるのだろうか。レコード大賞の審査委員長だった同氏の葬儀を、上京して千日谷の葬場で司式した時、葬儀社の人は告別(いわゆる献花)の始まるまでの式をできるだけ短くするように催促した。そうして式場には、遺族とごくわずかの関係者が席についていた。しかし「告別」の列はそれが終わると延々と続いた。二千人は下らなかったに違いない。芸能界はなかなか派手だ。そして人は時間を見計らって会場を訪れた。多忙な人たちは式そのものに縛られないから、その方が現代的であるのかもしれない。

 よど号を乗っ取った一人、北朝鮮で死亡したK.Yさんの葬儀のこと、小磯良平兄の葬儀のことなど、いくつもの葬儀の思い出は尽きない。またの機会に記したい。

(岩井健作)


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