七転び八起き(後半)(1988 説教)

1988年5月19日、日本キリスト教婦人矯風会 1988年度全国大会説教、
神戸「みのたにグリーンスポーツホテル」
1988年7月号「婦人新報」掲載

(神戸教会牧師10年、健作さん54歳)

前半

 さて、私たちはアモスを読む場合、富者と貧者、支配と被支配、専制君主と被抑圧民、という二極構造の印象が強いために、そこでものを考え、アモスは最下層の虐げられた人の側に立って権力者と戦ったのだ、と思いがちです。とすると、自営・小家畜牧畜者という、その二極のいずれでもない階層に「神の審き」が及ぶとはどのような意味なのか、を問い直さざるを得ません。

 アモスの預言の大部分は明らかに王とそれを取り囲む一族に向けられている、そのことはよくわかります。ところが、それとは別に、最近の研究によれば、この時代にはかなり力を持った中間層が存在したことが認められています。「中間階級がかなり強固な社会層として形成され、上層と下層との中間にあって、上下が直接ぶつかることを妨げていた」(関根正雄「旧約聖書における終末論の理解」『終末論 : その起源・構造・展開』所収 創文社 1975、『関根正雄著作集 第5巻』所収 新地書房 1979)と、この時代についての指摘があります。貧者が実力行使でぶつかる社会変革の時代ではないために、預言者の行動は社会的実力行使の活動ではなく「神の審き」を「言葉で告知する」戦いであったのです。ここが肝心です。

 アモスは「神の審き」という、現状の否定を語りました。否定を語る先に救いがあることを語ったのではなく(ホセアにはその傾向がありますが)、ただ否定のみを語りました。語る方も聞く方も大変しんどい言葉です。だからこそ、語る主体が適当な安住の場から語るということの出来ない命懸けの言葉でありました。ということは、アモス自身が神の裁きに自らの身を曝(さら)していたことに他なりません。そのことは他ならぬアモスが属していた中間階層の人たちの経験として、このことが露わにならねばならなかったということでもあります。

 アモスが属していたのは、羊を飼う者、中間層であります。この人たちは、腐敗した指導者に比べれば、それなりの倫理を保っていたし、自営小家畜牧畜者同士の共同性も大事にしていたし「ヤハウェ信仰」の継承者でもあります。今日で言えば、平和と民主主義、人権感覚にも理解のある中間層と言えましょう。しかし、この人たち、つまり「青草」によってそれなりの生活をしている人たちが、今、いなごによる「神の審き」の前に立たされていることの厳粛さが、このテキストの語り告げんとしているところです。

 言葉の営みというものは、語る主体が根底から問い直されるところに厳しさがあります。自らの破れを経験していないところで語られた言葉は、人を切ることがあっても人を活かし得ないということは、少々人生を深みで生かされている者の知るところであります。アモスはそういう意味で、言葉を単に言葉として操る職業的預言者のかしましさを知っていたに違いありません。言葉や論理や思想を表面的なやりとりで見れば、預言者の真偽は区別がつきません。問題は、言葉の主体が言葉の終焉を自らの内なる審きとして宿しているかどうかです。教会内で表面的には最もよく奉仕をする人につまずくとか、熱心な親の信仰につまずくとか、この類のつまずきは内なる審きの表面化に過ぎません。

 アモスは言葉を通して「神の審き」を語りました。だからこそ自らも属している自営農民層が、神の審きの前に立たざるを得なかったのであります。強さの呼称「イスラエル」が審かれるのは当然ですが、ここでは弱さや小さい者の呼称である「ヤコブ(イスラエルと同名)」が自覚されて、神の審きに対して執りなし、そして神に赦しを乞うています。アモス書で執りなしがテーマとして現れるのはここだけです。


"見よ、二番草のはえ出る初めに主は、いなごを造られた。見よ、その二番草は王の刈った後に、はえたものである。そのいなごが地の青草を食い尽した時、わたしは言った、「主なる神よ、どうぞ、ゆるして下さい。ヤコブは小さい者です。どうして立つことが出来ましょう」。"(アモス書 7:1-2、口語訳)


 神の赦しがなければ言葉の主体ですらあり得ない者との自覚があって、アモスの言葉は言葉としての力を持ちます。中間層の内面にこの危機感が無くしてはアモスは存在し得ません。「青草」の危機の意味はここにあります。

 日本のキリスト教の諸運動の担い手は、決して最底辺被抑圧層ではありません。むしろ、ともすれば国家体制の補完を担う層であります。その者になお言葉における神の戦いが委ねられていることの意味は大きいと思います。

 それだけに主体と言葉の剥離を厳しく審かれつつ、また執りなし、赦されつつ存在することを真剣に祈り求めてまいりたいと存じます。日本の精神構造の一つは、言葉と主体の二元的あり方の矛盾に敏感でないということでありましょう。ここでこそ神による審きと赦しが「希望と成長」の基であることを願い求めざるを得ません。ここで"七転び八起き"をすることこそが「成長と希望」であります。

 私はアモス書を読むと、先年召された山田守牧師のことを思い起こします。彼は最後の説教で、彼の教会の幼児施設に障害を持つ上の子を入れ、その統合保育に心から感謝している母親が、次の子はエリート養成幼稚園に入れて能力主義の道を歩ませているという矛盾に深い悲しみと憤りを覚えたと語っています(「婦人新報」1984年2月号 p.22)。それが日本の現実であります。また偽らざる私ども自らの内面でもあります。七転び八起きしつつ、内と外との戦いを持続していくことに、赦されるヤコブの小さな姿を見てまいりたいと存じます。祈ります。

(岩井健作)


前半


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