七転び八起き(前半)(1988 説教)

1988年5月19日、日本キリスト教婦人矯風会 1988年度全国大会説教、
神戸「みのたにグリーンスポーツホテル」
1988年7月号「婦人新報」掲載

(神戸教会牧師10年、健作さん54歳)

"見よ、二番草のはえ出る初めに主は、いなごを造られた。見よ、その二番草は王の刈った後に、はえたものである。そのいなごが地の青草を食い尽した時、わたしは言った、「主なる神よ、どうぞ、ゆるして下さい。ヤコブは小さい者です。どうして立つことが出来ましょう」。"(アモス書 7:1-2、口語訳)


「地の青草を食い尽くされた」。それはどんな光景でありましょうか。私たちは、アフリカで発生したいなごの大群の一部が、地中海を渡ってイタリアに侵入したというニュースをテレビでつい先頃聞きましたが、およそ他人事であります。しかし、このテキストでは他人事ではありません。青草は、イスラエルの小家畜牧畜業者、つまり羊を飼う者にとっては、なくてはならない生活源です。季節と共に青草が生え、生業が成り立つということは、牧畜民にとって「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」(詩篇 23:2、口語訳)という詩と共に、恵みに満ちたことでありました。

 7章1節には「見よ、二番草のはえ出る初めに、主はいなごを造られた」とあります。二番草は、最初の刈り入れが終わった後、雨の後に芽生え出る豊かな草です。この季節にいなごが大量発生することは稀なのだそうです。この異常事態を「主は、いなごを造られた」と、まさしく神の審(さば)き、と受け取っています。

 なぜ、神の審きなのか、この疑問がアモス書7章前半の、この物語を読んだ時、電撃のように私の心を走りました。なぜ、羊を飼う者が「神の審き」に服さねばならないのか。

 今、青草をいなごに食い尽くされて(または食い尽くされようとして)茫然自失している小家畜業自営農民は、そんなに「神の審き」を直截に受けねばならない悪しき階級なのでありましょうか。

 そうとは思えません。彼らは一番草を王への税として軍馬の飼料として供出していますが、かと言って、アモス書5章に出てくるように貧しい階級を踏みつけている階層ではありません。ではなぜ、彼らにとって「神の審き」が臨むのでありましょうか。

 アモス書が旧約聖書の「預言書」という一群の書物の一つであること、これらの書物が今から2700年前、紀元前8世紀から6世紀位の間にイスラエルで活動した一連の預言者たちの行動や言葉を記したものであることは、皆さまがご存知の通りです。イスラエル民族は、紀元前1260年頃、エジプトのラメセス2世の統治時代、エジプトの地での奴隷状態を脱出してモーセに率いられ、荒れ野の放浪を経てカナンの地を征服しました。これを「出エジプト」に始まる一連の物語として私たちは聞いておりますが、最近では、エジプト脱出組はカナン定住者の一部であって、他はエジプト脱出と関わりなく平和的に漸次カナン地方に遊牧生活から農耕生活に移行し定着していったのであろうと考えられています。

 エジプト脱出組は、漸次定着組と共に宗教的な契約共同体の部族連合を作り、やがてそれがサウル、ダビデ、ソロモンによって王国を形成していきます。国家の支配や管理に対して、この王国では「エジプト脱出組」の精神、つまり荒野の放浪の経験の中で確かめられてきた、「脱出」は自分たちの力によるものではなく、ただひたすら「主(ヤハウェ)なる神」の救いの出来事によるものだ、という精神が生きていました。王国が大きく発展していくことを、むしろ「ヤハウェ信仰」からの逸脱として捉えるのが「出エジプト」の精神の継承であるとの考え方が生きていました。

 紀元前10世紀、王国は政治•経済•民族の内部事情等さまざまな要因を含んで、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。アモスは北王国でヤハウェ信仰に立って、ほんの一時期ですが、北王国の支配者たちの腐敗と堕落に対して神の裁きを語ります。アモス書7章14節以下を見ると、アモスは「預言者でもなく、預言者の子どもでもない、わたしは牧者である。わたしはいちじく桑を作る者である」といい、その生活の場から語ったことが示されています。アモスの時代は、北王国イスラエルはヤラベアム2世の統治下でいささかの繁栄に潤っていました。王の手腕もありましたが、北方のアッシリア、南方のエジプトという両大国の衰微によるところもありました。しかし国内は上層階級への富の集中と「土地政策」の悪化によって、貧困へと転落していく人たちが増加し、不正・不義が目に余るようになりました。

 聖書本文に次のようにあります。「彼らは正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売る」(アモス 2:6、口語訳)、「彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す」(2:7、口語訳)。これは本誌「婦人新報」が戦っている領域と重なり合うほどに現代的な問題でもあります。

続きます


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