3つのまなざし(1985 頌栄チャペルアワー)

1985年6月 No.21、
頌栄短期大学宗教部「チャペル月報」

(神戸教会牧師7年、健作さん51歳)


 3つのまなざしについて考えてみたい。

 幼稚園で遊んでいる子どもの姿をカメラに収める時、レンズの中でじっとみつめて撮る。あるいは観察室で保育を観る時、観る主体を隠して相手を観察する。第1のまなざしは相手を客観的にみる目、対象化する目である。

 しかし、私たちはそういう目だけでは生きていけない。相手の目を見て、相手の心の中に入っていく「出会いの目」をもたないと生きていけない。これが第2のまなざしである。私は先日、1年前に亡くなられた方で、被差別部落のために献身的に働かれた方の記念会に出席した。集まった人々はその方に続いて解放運動をし、共にその苦悩を負っていかねばならないと語り合った。その席で、部落のことを大変詳しく研究しているある大学の先生が、亡くなられた方がどういう風にして被差別部落の中に埋もれていたか、ある時から聖書のみ言葉に触れて自分に目覚め解放運動にどのように立ち上がったか、環境や社会によって作られた人間が逆に歴史を作りだしていく主体としての人間に目覚めていったのか、を驚きを持って見ている、そのことについて研究をしていきたい、とスピーチをした。すると被差別部落の方が、大変激しい怒りを込めて「先生はいつも研究する、と言う。しかし、研究のまなざしだけで、差別を受けている者の苦しみが、痛みが分かるのか。解放のために差別されている人間と同じ苦悩をもって戦わなければダメだ」と言われた。善意で考えれば、大学の先生は自分の研究を通して解放運動に参加しようと思っておられるのかもしれない。しかし、相手を研究の対象とだけしか見ないところには「出会いのまなざし」がない。苦悩を共に負うことがなければ心のふれあいはない。

 最後に第3のまなざしについて考えたい。この間、私の教会に結婚式を挙げてほしいという若い二人がやってきた。どうして教会で結婚式を挙げたいのか尋ねると「2年前、5歳になる姉の子が死に出会った。私はその子が生きてきた意味を考えているうちに、その子なりに5歳で自分の人生を全うし、神さまのもとで永遠に生きているような気がしてきた。私はキリスト教主義の学校を出たが、幼い生命の死に直面してはじめて違った視点でみつめることの大切さを感じた。自分たちの結婚も永遠につながるものを宿した生活にしたい」と語った。子どもの生命は神のうちにある。たとえ幼くして絶たれても、神の御手のうちにあって神の栄光をあらわす尊い存在である。私たちは人と出会ったら、相手を観察し、さらに相手と出会い、対話をし、その苦しみを共にするまなざしをもつ。しかし、さらにその人の背後に永遠なる神のまなざしを感ずる時にこそ、その人に対する根源的な尊厳、敬意の思いが生ずるのである。

 保育者になるということは、観察の目と出会いの目と永遠なるものをみようとするまなざしをもつことだと思う。第2コリント 4章18節でいわれるように、見えないものに目を注ぎ、心を注ぐことが大切だと思う。

(岩井健作)


頌栄短期大学チャペルメッセージ


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