愛の無償性(1984 頌栄チャペルアワー)

1984年5月 No.10、
頌栄短期大学宗教部「チャペル月報」

(神戸教会牧師6年、健作さん50歳)

 現在私たちの生活はいろいろなものを「持つこと」に価値観を置くようになっている。エーリッヒ•フロム(社会心理学者)は『”TO HAVE OR TO BE”』(『生きるということ』紀伊国屋書店)という題名の書物の中で、「持つこと」が単に消費財や家だけではなく、精神的なものにまで及んでいることを指摘している。学生は授業で教師の人格に触れることよりも、その知識だけをテープに入れて所有するし、母親は子を所有物として愛する。もっと怖いのは、宗教すらもが心の安定のために「持つ」ものになってしまっているという。そして「持つこと」の反対が「TO BE(存在すること)」だという。私たちがほんとうに自分の価値観を覚えるのは、自分のことを愛し、よく知っていてくれている人と共にある時だと思う。だから「存在すること」は「共にある」ことでもある。「TO BE」とは聖書では「神が私たちと共に在ること」を言う。その逆の「私が神を持つこと」と「偶像礼拝」と言って旧約聖書は厳しく戒めている。

 私たちが週に一回、日曜日に教会へ行き礼拝するという意味は、「持つ」価値観から解放されて、神が私たちと共に「在る」喜びを味わうことだと思う。

 私の親しい牧師は、18歳の時に喀血し、医者から「もう長くない」と言われた。最後の望みを託して肺切除の手術を受けた。私が見舞った時、京都の簡素な借家で老いた母親が息子の看病をしておられた。ただ病床の傍らに座って耐えて祈っている母親の姿に「共にいる(TO BE)」愛の重みを感じた。

 新約聖書のルカ福音書に放蕩息子の話がある。父から貰った財産で放蕩に身を持ち崩した末、父の雇い人にでもしてもらうべく帰った息子を父親は喜んで迎え入れ、祝宴を設けた。この箇所をある説教者はこう言っている。「息子を力づくで引き戻させることが出来ず、じっと待って、息子が共に生きることへと目を向けるようになるまで耐えている父親は大変無力だ」。そういう意味では、人の心の転換(悔改め)を待つ神はこの父親に似ていて「全能者の無力」という逆説で存在する神である、と言う。

「持つ」ことの世界には貸し借りの勘定があるが、「共に在ること = 愛」の世界にはそのような勘定はない。病気の友人は母の愛を借りっぱなしにせざるを得ない。もし万分の一でも返せるとしたら彼がまた誰かと「共にいる」ことを通してであろう。

 幼稚園で手のかかる子がいる。賢い先生は自分の教育技術の中でその子を「持とう」とする。それがダメだという「破れ」をとことん経験しないと本当には教師になれない。

 自分が「持つ」という世界で破れて、なお自分と共にいて下さる方、「神」を覚える時、無償の愛が自分を包んでいる。頌栄の教育の根底にはそういう在り方があると信じる。

(岩井健作)


頌栄短期大学チャペルメッセージ


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