1984年1月1日、降誕節第1主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)
(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん50歳)
コロサイ人への手紙 3:12-17、説教題「詩をもって神をたたえよ」岩井健作
1984年元旦の礼拝説教のテキストがコロサイ講解説教の順番から今日の箇所になったが、教会として襟を正されるテキストであると思う。
まず12節。
”だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。”(コロサイ人への手紙 3:12、口語訳)
「だから」という短い導入の言葉は、初代教会の信仰にとって一番大事な福音の核心を再確認させる。
1章13〜14節、2章13〜14節にもう一度、目を留めたい。
キリストの出来事による救いを明確にすること、著者は引力のようにここへとコロサイの信徒を引き戻す。
私たちは新年の初めに多くの夢を持つ。
それはそれでよい。
ただ、信仰者は人生の生と死の根本が「神の恩寵」のうちにこそある事を改めて覚えねばならないと思う。
キリスト教信仰にとって当たり前と言えばそれまでだが、当たり前のことに改めて心を注ぎたい。
”あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから”(コロサイ人への手紙 3:12、口語訳)
この自覚に立ちたい。
次に5つの徳目が挙げられ、「身につけなさい」と勧められる。
”あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。”(コロサイ人への手紙 3:12、口語訳)
これらは神に属するものであって、私たちの内側にはない。
もしあるとすれば、恵みの賜物である。
ただ私たちが、戒めを「神の」戒めとして従うことだけが大切にされねばならない。
恵みの関係に生きることの故に。
「柔和」や「寛容」という言葉を読むと、私は自分で本当に恥ずかしい思いがする。
日頃、気を揉みながら生きているうちに、額に縦皺ができていて、もう取れはしない。
周りの人を苛立たせている罪の印のようなものだ。
それを刻んだまま生きるしかない。
可能性があるならば、それは「神の」可能性である。
13節。
”互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。”(コロサイ人への手紙 3:13、口語訳)
「互に忍びあい」。
コロサイの教会もそうせざるを得ない現実だったのだろうか。
体験としての忍耐が、真理としての「キリストの愛」を知らせる。
教会で辛いことがあった時、教会から身を引いてはならない。
「キリストのからだ」が教会とは奥深い表現である。
”今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。”(コロサイ人への手紙 1:24、口語訳)
16節以下。
”キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。”(コロサイ人への手紙 3:16-17、口語訳)
「詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ人への手紙 3:16、口語訳)
これは教会の中心的行為の一つであろう。
「歌うことは、最高の活力を伴っての人間的発言である。そのように最高の活力の中で発言するようにと、キリストの教会の奉仕の中で、人間の声に対してすすめられている」(カール・バルト)
私たちの神戸教会会堂はよく響く、今年も大いに声高らかに讃美歌を歌う教会でありたい。
詩の言葉というものは、人間実存の具体的表現である。
詩と歌が響く集会をもって、証しをしてゆく一年でありたい。
(1984年1月1日 説教要旨 岩井健作)
1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)