1982年3月7日 復活前第5主日 神戸教会礼拝
週報掲載 説教要旨
(神戸教会牧師4年、健作さん48歳)
ルカ 11:14-28
「イエスが悪霊を追い出しておられた」(14節)。ルカはこのことを「神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(20節)と言い換えている。悪魔よ退け、関わりなければ(讃美歌198)と、「悪霊」を叱責して生きることができるとすれば、神の国の到来とはすばらしい現実である。
「悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになった」(14節後半)。言語障害者がそのハンディーで見られるのではなく、彼そのものが人格として人に関わっている以外に何も感じさせないほどに物を言っている現実が描かれている。
しかし、その現実を告げ知らされ、またそれを目の当たりにしていながら、それを本当には信じていない人たちの一群がいる。イエスはこの者たちと「ベルゼブル問答」を展開する。マルコ(3:22)では律法学者が相手であり、マタイ(9:34)ではパリサイ人が相手であるが、ルカでは群衆のある者たちが相手である。
群衆のある者は、イエスの悪霊追い出しを結局はベルゼブル(悪霊の頭)の力を借りてのことだと見る。つまり、私たちがこの世の有様を、どうにもならない悪の力の支配と見てしまうのに似ている。悪霊に打ち勝つイエスを信じながらベルゼブルの影を強く認めているのが群衆である。そしてその群衆と重ね合わせて自分自身の姿を見る思いがする。
先週、森村誠一氏の長編ドキュメント『悪魔の飽食』(1982 光文社)を読んだ。夜半なんとなしに繰り始めたページの終わりを戦慄をもって夜の白けのうちに送った。アウシュビッツ、南京、広島原爆と並ぶ恐るべき虐殺。関東軍細菌部隊、満州第731部隊、石井部隊が行った捕虜の人体細菌実験、生体解剖、そして敗戦による米軍との取引による免罪。森村氏は困難な取材を乗り越えつつ、日本人による他民族への加害の記録を記す。そして、この悪魔に支配される現実(国家の戦争体制)の前で誰が人間として自主であり自由であり得るのかを訴える。同一状況に置かれれば、第731悪魔部隊の延長線上にいるのが我々だという。聖書の「群衆」がベルゼブルの力に縛られたままであった如くに。
しかし、それを打ち破られる方としてイエスはこの世に神の支配を宣言されている。動揺する思いを見ぬかれるイエスのベルゼブルとは関わりのない姿に目を注いで生きていきたいと思う。
(1982年3月7日 神戸教会聖日礼拝
説教要旨 岩井健作)

