悲しんでいる人たち(1981 チャペルアワー)

1981年6月4日「チャペル・ニュース」掲載、学校名未詳
1978年 神戸女学院大学チャペル
2011年 湘南とつかYMCA

(カレッジアワー講師、神戸教会牧師4年目、健作さん47歳)

悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。(マタイ 5:4、口語訳)

 悲しんでいる人たちはさいわいである、と聖書には書かれている。ちょっと考えると、悲しんでいる人は不幸で、悲しんでいない人が幸いであるような気がする。でも聖書はそうは言わない。きっと、悲しみが何を意味するかを知っている人はさいわいである、という意味だろう。この世の中が、安泰だ、順調だ、幸福だ、平安だといって安心し切っている時、それを手放しでは喜べない精神を持っている人はさいわいだ。その幸福の影には世の偽りと頼りなさがにじんでいることを悲しんでいる人はさいわいだ、という意味だろう。

 私は10年余り山口県の岩国市に住んでいたことがある。川と山、そして旧市街の街並みも美しい所だが、また最近マスコミをにぎわしているように、アメリカ軍の海兵隊の基地がある街でもある。一発で何10万人もの人と街の過去と将来を全て破壊し尽くす核兵器が持ち込まれたという。この基地には何千人かの海兵隊員という20歳前後の若者がいる。この若者たちの影の問題は、売春、アルコール中毒、麻薬、傷害、殺人、人種差別といった問題があって、人間がボロボロにされていく問題がうずまいている。

 日本とアメリカのキリスト教協議会が協力してこの地域にコミュニティーセンターの活動をしている。センターの名は「セレンディピティ”Serendipity”(偶然に何か思いがけない美しいもの、聖なるものに出会うこと)」。このセンターで捧げられた祈りのことが今も私の心をとらえて離さない。ある冬、基地の近くで一人の女性が殺された。新聞の見出しは「客引き女殺される、水田に全裸体、犯人は米兵?岩国で未明」とあった。20年間に7件もこんな事件があり4件は未解決という。彼女は生前、センターの部長・黒人宣教師マッカーサー夫妻のところにだけは、心を開いて生きることの悩みを相談に来ていた。そして私たちは悲しみを心に秘めて追悼の祈りの集いをもった。聖公会のボールドウィン宣教師は「主よ、この深い罪の現実をあがなって下さい。そして悲しみを共に負う者とさせて下さい」と祈った。アーメン、まことに、私たちは心から声を和した。

 この世の悲しみを負われたイエスを知ることは、私たちが世の悲しみにいくらかでも心を痛めることを通してではないだろうかとこれほど感じたことはなかった。イエスは十字架の死に極まる生涯を送られた。このイエスにつながっている時に、悲しみがどこか開かれたものになって来る。閉ざされた自分本位の幸福とは違う。

 マルチン•ルターは聖書を訳す時、この箇所の「さいわい」(ギリシャ語の”マカリオス”)を幸福(ドイツ語の”グリュツクリヒ”)とは訳さないで、「救い」(”ゼーリッヒ”)と訳した。とすると、悲しみを持ち、その意味を探り、そして十字架の上に死なれたイエスが悲しみに心を向かわせるものには救いがある、という意味になる。それにしても聖書が「悲しんでいる人たち」と複数の悲しんでいる人々を画いているところに慰めを覚える。自分一人だけだ、と思いたくなるのが悲しみの現実だ。しかし、イエスにつながることで、悲しみを心に宿している人とのつながりが与えられる。

 六甲の駅から坂を上がり、松蔭の丘に立つと神戸のはるかなる街並みは海の光と共に実に美しい。明るい街だ。そして松蔭も明るすぎるほどだ。でもふと、心をよぎる思いがある。あの街並みの影にはたくさんの悲しみがあるに違いない。そしてキリストもそこにおられるだろうかと。

(岩井健作)


1978年、神戸女学院大学チャペル
2011年 湘南とつかYMCA


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