1981.1.4、降誕節第2主日、
新年聖日礼拝、神戸教会週報
説教:光の中を歩くならば《ヨハネ第一 1:1-10》
(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん47歳)
この日の説教、ヨハネ第一 1:1-10、「光の中を歩くならば」岩井健作
(サイト記)神戸教会の住所名称が、行政区画整備で1980年12月1日から「中央区」に変更。
(旧)神戸市生田区下山手通6丁目56
(新)神戸市中央区花隈町9番16号
花隈の教会<住居表示の変更にことよせて>
都心の過疎化は、神戸市でも例外ではなく、生田区、葦合区は共に人口が少なくなり、昨年12月1日から行政区画整備で中央区として統合された。
市民から募集したとはいえ、「中央」という無機質な命名は、いかにも官庁の権威意識を反映している。
せめて「中区」とか「港区」くらいにならなかったかと、未だに思っている人はいるだろう。
その折、旧「下山手6丁目」の山手幹線から下、花隈町と堺が複雑に入り組んだ地域の住人の一部から、町名変更、花隈町への併合の議があり、署名運動となった。
確かに、花隈中央通りを挟んで教会の向こう側、H.TさんやM.S、M.A夫妻は教会名簿でも従来から花隈町で、その感は深かった。
しかし「下山手6丁目の教会」も慣れ親しんでいるので、教会は署名には加わらないで、従来通りを意志表示した。
しかし結果は花隈町になった。
昔「色街」だった名、ということで、年取った方は顔をしかめられるむきもあるが、町内の史家・吉田茂樹氏(『地名の由来』人物往来社刊、六甲高校教諭)によれば、中世あたりは花熊・華熊・鼻熊などと書かれ、江戸後期では花熊村と称したと言われる。
花は鼻と同じで先とか端とか、突出した所に用いたとのことで、「クマ」は第一は奥まった所、第二は千曲川のごとく川や道の曲がったところを意味し、花隈は第二の意味だろう。
神戸市内で諏訪山あたりが最も山地の突出した鼻であり、これから平野にかけて地形は曲がっており、そんなところが鼻曲の地の由来ではないか、というのが同氏の説である。
明治5(1872)年12月に、宣教師 D.C.グリーン宅に集った青年たちの勧めで英語学校が設立されたのは宇治野村(下山手8丁目あたり)だと記録にあるが、明治13(1880)年秋、婦人宣教師ダッドレー女史と協力者・彼女の従姉バウロズ女史によって開校された神戸女子伝道学校の開校地は、花隈村であったと記録されている。
近年、神戸高速鉄道ができて、市バスを除けば、花隈駅が一番近い最寄駅となった。
少し坂があるが、坂の町、神戸らしい。
そんなことを考えながら、これからは地域に密着し、都心部のマンション生活者や商店街の人たち、それに昼間人口として流れ込む勤めの人たちなどの諸問題に目を開き、新しい伝道の課題を負っていくことが「花隈の教会」への道だという気がする。
下山手通り4丁目、7丁目、8丁目とたくさんの教会があるから、私たちは花隈の教会として個性を発揮してはいかがだろうか。
(1981年1月4日 週報 岩井健作)




