1978年7月16日、神戸教会夏期特別集会
主題「説教と日常生活」発題原稿
書き込みは健作さん、以下本文のみ
(牧会20年、神戸教会牧師3ヶ月目、健作さん44歳)
<私の場合>
私は神戸教会の講壇に立つ前の週、ある教会で旅の礼拝者として、一人の説教者の講壇のもとで説教を聴く機会に恵まれた。その説教は、前半教会員の一人が海外での仕事で体験した話をきっかけに、最近の日本人論や文明批評についての2、3の書物の紹介と感想があり、続いてその日の旧約預言書のテキスト本文の講解を一つ一つたどるかなり長いものであったが、講解は一節一節が力をもって浮かび上がり、「みことば」として迫り、聴く者の心を砕き、打ちのめし、しかも恵みのみことばの故に立ち上がらせ、新たにさせられるという体験を起こさせるものであった。聴衆は狭い会堂に前からびっしりと詰め、もう長年聴き慣れたその牧者の言葉を通して、その日新たに聖書そのものの語るところを聴くために心を一つに注いでいる感があった。
教会が世の重荷を負う者の集いであってみれば、一介の旅人の目には映らない陰の部分はあるだろう。しかしそれにしても、その教会の説教への集中には圧倒されたし、ましてその説教者が70歳も半ばをすぎて、あのような説教への集中と持続を新たにすることを可能にしている修練に撃たれた。新しい教会への召しを前にして、この務めに耐え得るのかとの恐れとおののきの心を忘れることはできない。そしてこの経験から説教についてかつて読んだ論文の中の二つの言葉を思い起こした。
一つは、ボンヘッファーの『教会の本質』(森野善右衛門訳、新教出版社 1972)にある。
「教会の務めは人格とは関係なく教会に与えられているということである。説教の務めの賜物(カリスマ)は教会に与えられている賜物(カリスマ)である。…牧師は本来的な意味での務めの担い手ではない。務めの担い手はあくまでも教会である。牧師は教会からその務めの遂行を委ねられるのである。それはあくまでも「教会の務め」である。しかし、牧師は今や彼に説教の務めが委ねられているかぎり、彼の働きは空しくはないという約束を持っている。この約束は、彼が信じていないところでも、なくなることはない。この約束は、牧師の正しい説教にかかっているのであって、彼の信仰に依存しているのではない」(同書 p.59)。
もう一つは渡辺信夫「説教者の姿勢」(「Predigt-meditation 説教者のための聖書講解 : 釈義から説教へ : No.6」所収、日本基督教団出版局、1974)という一文の中にある”説教者の修練”の項である。
「説教者は自分自身に対してよほどきびしくなければならない。自己修練から手を抜くことをおぼえると、いくらでも手を抜くようになる。それでも一応かっこうはつけることができるのである。勉強もどんどん安易な方に流れて行く。キリスト者はおおむね遠慮深いから、説教者に対する教会員の直言はまれである。だから説教者はいつも目覚めて、自己をいましめつづけなければならない…」。(上掲誌 p.4)
さてこの二つの文は「”私の”説教と日常生活」という主題にとっての課題である。この教会に「教会の務めとしての説教」を委ねられた者として、この委ねられた働きを日常生活の中で担うには多くの困難があり、戦いがあり、また誘惑もある。牧師の日常は、予定を立てたスケジュールにはおかまいなく、次々と思わぬ出来事が入ってくる。何が重要であり、何を優先しなければならないのかの判断は重要である。その判断の基準を「ピリピ人への手紙」は「愛」だという。「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり…」(ピリピ 1:9-10、口語訳)とある。ここでいう「愛」が、独りよがりの愛ではなく、イエスの愛に基づく「愛」であることはいうまでもない。私は、託された務めの中でこの愛が増し加えられていきたいと願っている。こういっただけではあまり抽象的で問題がはっきりしないようだが、一言で言えば「ただいたずらに動きまわる」(テサロニケ人への手紙 3:11)のではなく、説教と牧会とが相まって深められていくような息の長い日常でありたいと願っている。
パウロは「エペソ人への手紙」の中で「わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい」(エペソ 6:19、口語訳)といっている。それになぞらえて言えば、説教者の日常のためにも切なる祈りをお願いしたい。
さて、夏期特別集会において「説教と日常生活」を主題に経験を分かち合う場合、二つの仕方があると思う。
一つは、この主題を神学的テーマとして捉え、説教の本来的役割というものと現代の日常生活との関わりを解し、辿ることである。もう少し他の表現で言えば「説教と日常生活」について一般的に語ることである。この場合、難しいことは、それぞれが交わし、語り合うために用いられる言葉というものが、ある程度、共通の生活基盤に根ざしていないと、やたらとお互いの主観がぶつかり合ったりしてしまう。もちろん時間をかけて分かり合うことから始めなければならないが、そのためには注意深く相手の経験にまで想像力を深めて聴きつつ、話し合いを進める必要があるだろう。教会の持つ共同的なあり方とは、そのための忍耐に秘められているとも考えられる。
もう一つの展開の仕方、具体的にみんなが礼拝で聴いた説教について「わたしはこう受けとめた」という、自分の信仰の証を分かち合う方法である。すでに語られた二つの説教、4月23日「主のわざ」(コリント人への第一の手紙 14:56-58)、5月7日「人の知恵と祈り」(使徒行伝 1:15-26)と、本日の説教「ぶどう園のいちじくの木」(ルカ 13:6-9)が対象になるだろう。それぞれが説教で語りかけられた「神の言葉」のメッセージへの多様な応答が交わりを生む。
いずれの展開方法をとるか、あるいはそれが入り混じって懇談が展開するかもしれない。だが、説教が「それは牧師の務めであるように、教会のそれぞれのメンバーの務めである」(前掲ボンヘッファー著書 p.59)ことを祈る。
