教団問題と私たち(1971)

1971年9月「日本キリスト教団 西中国教区通信」No.31 掲載

(西中国教区副議長、岩国教会牧師6年、健作さん38歳)

 教団では今いろいろな問題が起きています。教団が成立したのは1941年(昭和16)です。それ以来、表面には出なかったけれども懸案だった諸問題が、ここ数年、活火山の爆発のように激しく噴き出し続けています。というと、いかにも外から噴火を眺めているように聞こえますが、起きている問題は、いわゆるスキャンダルといった事件ではなく、教会としての教団そのものの信仰のあり方に係わっている問題です。地方教会にいる私たちが、個々の出来事に直接関係がない場合でも、深いところでは、私たちの信仰のあり方に関係があると思います。もし、各個の教会で何か起こったとすると、例えば、伝道のこと、人事のこと、附属事業のことなど、それらの問題のもつ個々の側面とは別に、教団で起こっている問題と質的に係わりができてしまいます。だから、私たちは、あれは中央のことだ、といって傍観者になったり、よく分からない、といって無関心であったり、限られた情報だけで独断的に判断することを戒めなければならないのではないでしょうか。

 私は、問題の理解のために(1)情報を広く知ること(といっても「教団新報・キリスト新聞・信徒の友・月刊キリスト・福音と世界」等々のキリスト教ジャーナリズムの他は当事者発行のパンフやニュース)、(2)問題の根源を日本の教会の歴史という縦の線の中で捉える(現象面だけに反応するのではなく)ことが大切だと思います。そして(3)問題を自分のこととして担う姿勢が必要だと思います。自分のこととして担う、といった場合、二つの面があります。一つは事柄に対して自分なりの批判をもつこと(ここで注意したいのは、批判とは単なる審きとの区別をつけることです。いわゆる審きは相手だけに向けられますが、正しくなされる批判はその批判が自分にも向けられて、自己への批判を伴っています)、もう一つは、事柄に耐えること、逃げ出してしまわないこと、でありましょう。なんだか自分に言い聞かせるように原則論を書いてしまいましたが、私自身「教団の問題」に対して、ぼんやりした状況感覚のようなもので身のふりかたを決めているのが偽らないところです。

 私が洗礼を受けたのは1946年(昭和21)で教団成立の5年後ですが、田舎の教会でもあり、まだ中学生であったせいか、各個教会の名の上に冠せられていた「日本基督教団」という文字は、いわば空気のようなもの、アクセサリーのごときもの(教団成立に労苦した方々には申し訳ないが)としか感じていませんでした。その後、神学校を卒業して、型通りの教団教師試験が済んで(現在、試験拒否をして、教団の問題点を問うている方々には申し訳ないですが)、H教会に赴任しました。その頃、年輩の人たちに出会うと「教団も変わったものだ」というような意味のことを言われました。明治以来ごく初期の宣教開始期を除いて、日本の教会は教派による伝道で教会が作られてきました。その習慣から考えると、旧組合教会系の神学校の卒業者が旧メソジスト系H教会に赴任したということは、人事の特例と感じられたらしいのです。後にK教会(旧日基系)に移ったときも、I教会(旧日基と旧メソジストとの合同)に転じたときも人々は同じようなことを言いました。形の上では一つの名を冠した教団の中の諸教会も、その実は旧教派的意識の中にあり、それが徐々に人事や活動の交流を通して一つにとけ合うことを目指していたようです。そしてそれが「教団的」ということの通俗的な意味だったと思います。中央では「教団的」な人々が委員会で活躍し組織を担っていました。第8回教団総会では、教団成立以来の重要懸案であった信仰告白が用意周到な準備の下に採決されました。この「信仰告白」について述べる紙数をここでは持ちませんが、今から考えると、通俗的に「教団的」といわれていたことと、それを持つことによって「名実ともに…合同教会になった」(信仰告白の解説・序)という信仰告白制定のあり方とは深い関係があるように思います。すでに存在する教会の信仰的あり方を根本的に問うという批判作業をしないまま、すでにあるものを伝統として是認して、諸伝統の融合を目指して、形や組織を保ち続けてきた場合、どこかでそのような問題点が露呈すると思います。教団の問題は誰かが引き起こした問題というより、自らが内に抱えていた問題だと思います。「おおわれたもので、現れてこないものはなく」(マタイ 10:26)と言われるべき問題だと思うのです。

 教団は1941年(昭和16)、宗教団体法により「政府の要請を契機に」成立しました。「契機」と言って「圧力の下に」と言わないのは、明治以来の福音主義諸教派の中にあった合同への信仰的希望を汲んでいると思います。しかし、それで教団成立の問題点がおおえる訳ではありません。天皇制絶対主義の国家への屈従と戦争協力の問題。それらを起こしてしまった福音把握の問題(教義的に正しいようであっても気付かぬうちに福音そのものから逸脱してしまうような把握の仕方)。それらの問題を素通りして戦後の教会形成をやったこと等々…。教団の中の諸教会では地下水のように、こういった問題に対して深い挫折と懺悔の意識が流れていました。今日、教団の問題が問題として問い起こされている源流にはこのような意識が秘められていることを見落としてはなりません。確かに、これらの意識は、外から(例えば外国の神学、戦後の民主化・変革運動など)の刺激で強められはしましたが、教団自身がどうしても負わねばならない課題として、広げられ、深められてきた根本には、罪責意識があります。それらは教団宣教基礎理論の中の体質改善論になって表れましたし、それぞれの地域教会の実践として取り組まれました。そしてそれは、教団が第二次大戦下における自らの責任を告白すること、即ち「戦争責任の告白」へと結実していったのであります。そして、この戦争告白が今日の教団の問題の表に現れた第一の噴火と言えるでしょう。

 このように見てきて、大変粗雑な言い方かも知れませんが、組織や制度ということに重きをおいてものを考えてきたといえる表層の流れと、それよりもまず第一に、使命や課題を遂行していく責任的・主体的あり方を問題としていく深層の流れとの軋(きし)み合いを感じます。そして、後者が前者に激しくぶつかっていくところに、歴史的状況の中で生きる教会の姿があるのだ、と思います。具体的問題に触れないままで、このような図式的理解を先取りすることは戒めねばなりませんが、罪責の告白と共に「死を負う」のが、組織とか制度だと思います。「かにむかし」という日本の昔話を思い出します。柿の木の上から猿に柿をぶつけられた蟹はつぶれて死にます。しかしつぶれた蟹の固い甲羅の下から、蟹の子どもがぐずぐずぐずぐずと沢山はい出して、やがて猿に立ち向かうという話です。示唆に富む話です。

 以下、今起こっている問題への私見を述べさせていただきます。ご批判をお願いします。

戦責告白」:これは教団の社会実践の方向性を示すものだという意見に対して、そうではなく、信仰のあり方を示したものだと思います。もちろんこれが従来の信条のように信仰信条の体系的告白だとは考えませんが、そこには「教団信仰告白」成立への問題提起が、遡ってなされていると思っています。

万博キリスト教館参加決議」:戦責告白にある責任的あり方からして、参加決議は誤っていたと信じます。9・1ー2集会での問題提起を受けて、16回総会が招集され、前決議の誤ちの訂正がされるべきでしたが、それが出来ず、討論集会に終わりました。これを会議制の破壊とだけ執拗に考える考え方に反対します。

東神大問題」:万博問題等に対して誠実に神学的対話を努力すべき神学校が、それを抜きにして問題提起をしている学生に対し、権威主義的レッテル貼り(行為義認主義)や機動隊導入で排除したこと、また問題提起の学生たちの離散と時間的経過の中で事柄の正常化を計っていく行き方に絶望的なものを感じます。教団がこのことへの総括をしないで既成事実を認めてはならない、と思います。

C案からD案への移行」:常議員会自らが第16回総会後の総括作業を決定しておきながら、それをしないうちに、欠席という手段で常議員会開催不能という事態を引き起こしておいて、飯議長辞任を決めたD案を出すことで常議員会を「組織体の責任を負う主体」として発足させたこと。これに対しては教団内いろいろなところで批判が出ました。組織をまず優先させていく教会というもののあり方に対して、私は大きな問題を感じます。これは誤りだと思います。

教師検定試験」:教区常置委員会は教区月報で、今度実施の試験に疑問と中止要求を出しています。紙数が少ないので内容紹介はできませんが、私はその見解に賛成しています。

教団総会」:今秋開催が目指されていますが、開催さえすればよいというのではなく、どれほど、当面する問題に対して討論が深められるかが重要だと思います。

 いま教団に必要なことは、"正常化"ではなくて、今の歴史状況の中で、教会が福音に立ってどれほど責任的・主体的に過去の誤ちを償いつつ「地の塩」「世の光」としての使命を果たしうるかということだと考えています。私たちにとってそういうものが教団だと思います。

(岩井健作)


<画像最後のものは岩国時代(1965-1978)おそらく「ほびっと」集合写真、中央に中川六平氏、左3列目に健作さん>

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