連帯を破壊するものへの抵抗(後半)(1971 同志社)

1971年4月21日「チャペルアワー月報」掲載、同志社大学宗教部発行
1970年12月9日開催 同志社大チャペルアワー座談会記録

前半

 今日、アメリカの兵士たちの間に「良心的兵役拒否」の動向が数多く見られるのですが、この問題について次にお話ししたいと思います。本来、この兵役拒否の制度はクエーカー教徒のような特定の宗派に属する宗教的信念からする兵役拒否者に対して適用されたものです。しかし、その信念に匹敵する信念を個人が有している場合にも適用されるようになっている。その代わりに代替業務が課せられる。例えば、前線の病院で働くとかのように。この制度は、個人の人間としての良心の自由に対して、国家はその権利を侵すことができないという判例を有しております。阿部知二氏の『良心的兵役拒否の思想』(岩波新書 1969)がありますので是非お読み下さい。

 キリスト教の歴史には二つに性格があります。国家権力と結びついた歴史と、それに対峙し続けた歴史とがあり、良心的兵役拒否の思想は、後者の流れに属するものです。日本でもその思想が明治以降に僅かに見られるわけですが、日本友和会編の『良心的兵役拒否―その原理と実践 』(新教新書 1967)にそれが示されています。ここで重要な問題は、人を殺すことができないという客観的な側面と、それが自分の信念になるという主体的な側面とが良心的兵役拒否にあるということです。

 この拒否を軍隊の中にあって要求するには非常な闘いが要求されます。岩国基地で数多くの兵士が良心的兵役拒否を申し出たのですが、まだ一件も通過せず、全てボツにされている。このために米軍内部の弁護士ではなく、米国から弁護士を呼び、運動は続けられています。息の長い闘いにならざるを得ません。

 なぜ良心的兵役拒否の問題が大切であるかというと、日本国憲法が改悪されて徴兵制度が敷かれるようになった場合、その徴兵制と闘い得る拠点は何なのか、という問題が考えられねばならないからです。徴兵制が敷かれないという保証は全くないのは勿論です。制度が敷かれてしまってからでは遅すぎる。国家権力によっても侵されてはならない良心の自由の権利を守っていくことが、今わたしたちにどうしても求められるわけです。その決心というか思想というか、その方法が今から構築されておかないとダメなわけです。日本に徴兵制がたとえ敷かれたとしても、内容として兵役拒否の闘いを組めるわけですから、それを作っておかねばならない。これがない場合、その闘いに勝つ可能性は無となってしまうと思うのです。

 このように考えてみますと、アメリカ兵たちが兵役拒否をしようとしていることは、実は私たちの問題でもあるわけです。米兵の良心的兵役拒否が本当に支援できなければ、我々の国の憲法の平和条項だって全く意味を失ってしまうわけです。米兵の良心的兵役拒否の支援は、私たちの兵役拒否の運動である。ここに彼らとの連帯があるわけですし、また反戦自衛官の兵役拒否につながるわけです。

 石田雄氏の『平和の政治学』(岩波新書 1968)で、日本国憲法の平和の精神は国民一人ひとりの非暴力の自覚に裏付けられたならば、外交的な力を発揮すると言っております。人を殺さないという信念が心の内側にあって定かでなければ、平和憲法の条項は空文化するわけです。旧約聖書に記されている「汝、人を殺すなかれ」は非常に消極的な表現です。これを民族の内面的道徳の限界を超えて積極的に言い換えたのがイエスの言葉で「汝の隣人を愛せよ」である。人を殺さない、ということが消極的表現であるとしても、人間相互の真に客観的な連帯の側面である。それがぎりぎりの人間の連帯である。「そのことがはっきりしているかどうか」が問われてみなければならないと思います。その考えが借り物ではなくて自分の信念になって裏付けられた場合に、本当の意味での人間の連帯が起こってくるものであると思います。

 人間が尊いと言われるが、それがあたかもダイヤモンドの如く即自的なかたちでの人間尊重という考えを私は持ちたくない。人間が尊いのは、人間が連帯できるからである。ですから、さらに連帯を崩していく者に対して抵抗することの尊さがあるわけです。そういうことを、叛軍活動をしている米兵同士が庇(かば)い合う中にみます。団結は、イデオロギーや思想においてあるかのように考えられがちであるが、連帯とか団結とは、庇い合うというような、ぎりぎりの行動において生まれるものであると思います。それは既成の秩序や支配を相対化する自由を持っている。連帯を破壊するものとは、そういうものとは全く逆に権力を持って人を殺させることであると思います。したがって、今日において反戦という行動は人間の連帯に根源的に関わる問題だと思います。人間の尊さは連帯の可能性その行動にある。人間の連帯的な理解が必要です。

 旧約聖書にアベルとカインの物語があります。兄カインが弟アベルを殺すわけです。弟の血が地面に沁み込み叫んでいると表現されています。「血」はヘブライ的な意味では「人間の連帯の印」であった。その「血」が「叫んでいる」。聖書の思想は、そういう考えによって貫かれている。連帯的な人間の在り方へと仕向けられているということが、人間が神の似姿につくられたという表現の意味であると考えられます。

 連帯の感覚は、相手の心の悲しさを理解するところにあるでしょう。広島で日本基督教団は被爆者の孤老ホームを建設しておりますが(清鈴園)、それを中心にやっている二神さんという人が次のように言っております。「われわれは孤老ホームの精神やそのことへの洞察の深さよりも、被爆孤老の存在がもっと重いことを強調したいと思います」。被爆者のために何かをやってあげているとか、他の人々が手をつけていないことをやっているとか、何か自分の論理を正当化したいわけですが、戦後25年間の苦しみ、虚無を共に味わってくれる人がいるかどうかということが、被爆者たちにとって最大の問題であるのだと言えます。として、被爆者の気持ちを私たちが分かることが出来ないのが本当でしょう。いくら努力しても被爆者の苦しみはわからないという気持ちを持ちながら、その努力を重ねることが大切であろうと思います。どこからも自分の悲しさや虚無というものは解かれないというその自覚がなければ、やはり連帯というものはあり得ないと思うのです。

 連帯の感覚とは、何かをしてあげるというものではなくて、義に飢え乾くという福音書の言葉にあるような、共に居合わせるという感覚であると思います。一言も語らずともそこに居らせてくれという感覚です。

 第二に、連帯の感覚としてあげられるのは、相手のために犠牲を払うということだと思います。聖書の中に贖(あがな)いという言葉がありますが、相手とのかかわりにおいて、相手のために犠牲を払うということだと思います。相手にとって真に有効化どうかということであって、自分のためではない。

 最後にこのようなことは理屈では分かっても、自分自身がニヒルな気持ちになって何も出来ないということがあります。「いくらやっても何にもならないんじゃないか?」。その時に非常に慰め深い聖書の言葉なのですが、イエスが安息日に意志を失った人間に「手を伸ばしなさい」と言った話があります(ルカ 6:6-12)。「右手の萎えた人」とは、右手は人間の意志を表していますから「意志を失った人」ということになります。その人間に手を伸ばせとイエスが言った。当時、安息日に何かの行為をすることはユダヤ教の律法からして禁じられていることであった。その律法において連帯が保持されているかの如く思われていた。だからパリサイ人たちはイエスのその行為を批判するわけです。それに対してイエスがとった行動とは、律法の論理・儀式・制度にある平安とか救いではなく、右手の萎えたその人間に、彼の手を指し向けることであり、そして、手を伸ばせということであった。

 手は人間の行為の始まりである。手によって人間は人間となる。「である」ところの人間から人間に「なる」ところの人間へと向かう、その時に手が動くわけです。つまり意志を失って虚無に打ちひしがれている一人の人間に自らの手を伸ばすことによって意志を取り戻すことを、イエスはその人間に対して示したわけです。またそこに、自己自身からする連帯、主体的な連帯が生まれる。それは安息日の遵守という既成の秩序によって保持されているかの如き連帯と対立するものであり、もう一度それを相対化するものとなるわけです。こういうことをこの聖書の物語は言っていると思います。

 ですから、兵隊たちと話はそれほどスムーズに通じなくても、このような意味での手を動かすことによって、互いの意志を表しあっていく。そこから言葉を覚えていくわけです。少なくとも手を動かすことから、挫折や絶望から救われていくのであり、そこから連帯するわけです。自分の手を伸ばし、そして他者の手を握るところから連帯が生まれるのであり、そういう事実を除外してはあり得ないと思います。連帯を破壊する権力に対して闘う時に、私たちは自分の手をまず差し伸べていくところから出発せねばならないと思うわけです。

(岩国教会牧師 岩井健作)


前半


error: Content is protected !!