(このページは健作さんの文章ではありません。高崎出身の内村と安中出身の新島の接点となる書簡を引用しました。)
内村は幼き日を高崎藩で過ごし、新島は安中藩、共に自力で単身アメリカに渡り、留学先は共に「アマースト大学」「シーリー教授・校長」(新島はアンドーバーニュートン神学校からアマースト大学に進学していました)。
アマーストでの内村と新島の上州人の絆がいかなるものであったことでしょうか。
やがて新島は「同志社」を創り、内村の祈りは「基督教独立学園」を創りました。
現在、新島から内村への書簡を岩波文庫で読むことができます。当時ペンシルベニアの病院で働いていた内村は、この時、ペンシルベニア大学(あるいはハーバード)の医学部とアマースト大学リベラルアーツとで進学先を迷っていたようです。
なお、興味深いことにこの手紙は1954年の『新島襄書簡集』(岩波文庫)には収録されておらず、2005年発行の『新島襄の手紙』(岩波文庫)にのみ収録されています。
以下、新島から内村宛の手紙の箇所を『新島襄の手紙』(同志社編、岩波文庫 2005、p199-201)から、短いので全文引用します。 とりあえず『新島襄の手紙』(同志社編、岩波文庫 2005年)初版第1刷は次の通り。
内村鑑三宛 1885(明治18)年8月7日
原英文。1885年5月6・7日、ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学を訪問した新島は、同大学に留学中の新渡戸稲造(1862-1933)から、ペンシルヴァニア州の福祉施設で働いている内村鑑三(1861-1930)が精神的に参っているので激励してやってほしいと頼まれた。新島はボストンへ帰る途中フィラデルフィアで内村に会い、彼の悩みを親身になって聞き、共に聖書を読み、共に祈った。この時から両者の間に英語による文通が始まり、内村は新島を精神的な助言者として深く信頼した。新島は内村を救うにはアーモスト大学に送ることが最善だと確信し、恩師であるシーリー学長(Julius H. Seelye, 1824-95)に推薦状を書き、内村の入学許可を取りつけた。内村はハーヴァード大学やペンシルヴァニア大学に行く可能性を捨ててアーモスト大学を選び、2年間の在学中にシーリー学長の下で回心を体験したことは、彼の『余は如何にして基督信徒となりし乎』(第8章)が雄弁に証しする。
前略
昨日、貴兄から2通のお手紙を受け取りました。わが内村愛兄が福音宣教のために燦然と、しかも大胆に全身を捧げる決意をなさったことについて、神に感謝致します。
私は貴兄の新しい献身に心から賛同する者であり、大声で「アーメン」を唱えます。
貴兄の将来については異常なほど不安を感じていました。貴兄宛に先便を書いていた時でさえ、貴兄からの答えは私の期待を大きく外れたものになるのではないかという危惧の念を抱いていたのです。
このようなご返事を頂き、大変喜んでいます。これが貴兄の最終決断であると信じます。二度と変更はなりません。アーモストに入れば新しい道が貴兄に開けることを確信しています。金銭問題を気にする必要はありません。男らしさと献身が本物であれば、金は付いてきます。マナ(天の糧)は何とか与えられます。
確言しておきますが、今日この広い世界の中で、三位一体の神以外に、私ほど貴兄の新しいご決意を喜んでいる者はありません。こうして貴兄と共に喜ぶ機会をもたらして下さった神に、心の底から感謝します。シーリー学長宛、すぐにも手紙を書きます。アーモストから返事がくるまで、ペンシルヴァニアに帰ろうとしてはいけません。できるだけ長く北部(マサチューセッツ州グロスター)に留まるようにしなさい。ペンシルヴァニアよりもずっと高緯度の地に居られる方が、貴兄のためには良いからです。
最後に言います。愛兄よ、確信を持って主を待ち望みなさい。主は貴兄の道を歩きやすく、しかも祝福に満ちたものとしてくださるでしょう。
主にあって、ジョセフ・H・ニイシマ
主が貴兄をこの最終決断へ向けて一歩一歩導き給うたことに対し、感謝をこめてこの手紙に封をします。

