2003年7月6日 川和教会礼拝
説教要旨と祈祷、配布レジュメ
(川和教会牧師代務者2年目、健作さん69歳)
ヨブ記 7:17-21
旧約聖書で「人間、人、人々」と訳されている言葉の語源は20もある。ヨブ記7章17節に出てくる「人間」のヘブル語は”エノーシュ”。弱くはかない死すべき存在としての人間を意味する。しかしこの「はかなさ」の捉え方が、ヨブ記と詩編では全く対照的である。ヨブ記は暗く否定的。詩編は明るく肯定的。
「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。」(ヨブ7:17-18)
「人間とは何ものなのでしょう。…あなたが顧みてくださるとは」(詩編8:5)
ヨブ記の「訪れ」と詩篇の「顧みて」は同ヘブル語の”パークヮド”。一方は「責め、調べる」と神の人への関わりの激しさ、徹底さを、他方は「顧み、包み、育む」と慈しみを表している。7章のヨブは、自暴自棄に思えるほどだ。「ほうってほいてください。わたしの一生は空しいのです」(ヨブ7:16)。詩編では「あなたの天を、…わたしは仰ぎます」(詩編8:4)と顔の面は天に向くのに、ヨブ記では顔は地に向かって投げつけられている。
神と人との関わりについて、ヨブ記の特徴をマルティン・ブーバー(ユダヤ人哲学者)は「神の蝕(しょく)」と言った。日蝕の「蝕」だ。存在しているが見えない状態。ヨブ記の神は今は「隠されている」が、神は顧み(パークヮド)、ヨブはなおそこに顔を向けている。
なぜ詩編とヨブ記ではこうも陰影が違うのか。それはパレスチナの風土に関係がある。内陸部の死海のほとりの荒涼たる岩の山々。それに比べて地中海沿岸はブドウ、オレンジ、小麦と豊かな畑が続く。山岳の人々の顔の彫りは深い。聖書の風土は「緑の牧場」と「死の陰の谷」(詩編23)を同時に宿している。ヨブ記は後者から神に関わる。「隠された神」になお顔を向けるのがヨブ記の信仰であると言える。密度の濃い言葉だ。
『人間とその顔』M.ピカート(スイスの精神科医、みすず書房 1959)。「人間の顔はまず神への返答である。顔は造物主に対して答えるのだ」「一人の人間の顔を完全に眺めてしまうまでには、長い時間が必要である。そしてそのために要する長い時間の中には、神ご自身が被造物に対して抱いたあの忍耐、完成を待つ、あの我慢強さの一部が含まれている」。
ヨブは神が「朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる」という。神に眺められる時間がたとえ辛い時であっても、なお忍耐をもってその時間を過ごす必要がある。私たちはつらい時にこのヨブを思い出したい。
(2003年7月6日 川和教会礼拝説教要旨)
祈ります。
主なる神、私たちは自分の都合で心が一杯です。「どんな時でも、どんな時でも、苦しみに負けず、くじけてはならない」(讃美歌21 533番「どんなときでも」)と讃美歌で歌われています。どうかあなたに顔を向ける勇気をお与えください。今、日本の国の雰囲気は、暗いことが多く、希望を掲げて生きる人が少なくなっています。そんな中でどうか、与えられた一週間を、苦しいことにもめげず、顔をあなたに向けて歩ませてください。イエスの名によって祈ります。
(説教原稿より)