苦しむことを喜びとし(2003 説教)

2003年6月1日 川和教会礼拝
説教原稿、説教要旨(配布レジュメ)

(神戸教会牧師退任1年、川和教会牧師代務1年、
鎌倉在住、健作さん69歳)

説教要旨

コロサイの信徒への手紙 1:24-29

1.使徒(アポストロス)。派遣された者。イエスの弟子達。特にパウロは異邦人への使徒を自ら強調する。

2.使徒の働きには、苦難が必然的に伴うとされる。苦難は、キリストの福音を伝えることと離れがたく結びついている。「イエスの苦しみを身に受け」(ガラ6:17)「苦労し、骨折って」(コリⅡ 11:27-29)、「四方から苦しめられ」(コリⅡ 4:8)「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを」(使徒9:16)。その他(ローマ 9:2-3、コリⅡ 4:10)。使徒が苦しむという思想は、パウロの場合、旧約聖書の預言者像、特にエレミヤや第二イザヤに源流がある。パウロは、苦難の積極的意味を語り、苦難を通して、キリストに結び付くことを説く。

3.苦難と福音に与るゆえに「喜び」とも結びついている(フィリ1:29、ペトロⅠ 1:6)。パウロはキリストに結び付く苦難と日常の体験的困惑を区別している。困惑は受動的。苦難はそれよりも自覚的なものとして重層的に深く捉える。

4.ジョニー・エレクソン・タダ著、辻工子訳『天国 – 帰るべき我が家』(いのちのことば社 2000)の言葉「苦難は神に会う備えをさせる」。タダは17歳の時、不慮の事故で四肢麻痺、その後信仰に生きる。「私たちは、イエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(コリⅡ 4:10)を体現。

5.「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」の「苦しみ」は教会を形作っていく途上での「苦しみ・労苦」を言い表す。パウロにはない、コロサイ独特の表現。「苦しむことを喜びとし」が教会の形成についての文脈で言われている。

6.「苦しみ(スリプシス、圧迫、心の憂い、心配)」の語は、イエス自身の苦難には使われていない。異邦人伝道途上の教会の成熟に関わるものとされる。この苦しみは「キリストの後を追うこと」と解釈される。

7.「満たしている」は「代わって満たす」という意味。補足して完全にする。フランシスコ会訳『この身で補う』。教会は、イエスの十字架の死によって示された苦しみを、伝道や交わりの形成で自覚的に辿っていく場。

8.ある農村教会の50年。教会の成熟への歩みを思う。開拓伝道は困難。少数の信徒。農村地帯。日本の封建的な風土。近代の経済的な仕組み。陽の当たらない場所。教職を与えられること。教会を構成する信徒の個性とその組み合わせ。いろいろ補い合っていく歩み。50年の記念礼拝の喜び。

祈ります。
父なる神、私たちは、教会に来て、イエスを知り、救いを与えられました。それは、歴史の流れ中で、永遠の憩いを求め旅する群であり、またこの世の不義、世俗の泥にまみれつつもその矛盾や軋轢をキリストの苦しみとして負い続けている群れです。その教会の枝であることを、喜びとします。ひとりひとりは弱い器です。ぶどうの幹につながる枝のように、主イエスにつながることで、命を得させて下さい。主の御名によって祈ります。

(2003年6月1日 川和教会礼拝説教要旨)


説教原稿は7ページ。

礼拝説教

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