習うより慣れよ(2003 説教要旨)

2003年5月11日 川和教会礼拝
説教要旨、配布レジュメ
段落1までは説教原稿から

(川和教会牧師代務者2年目、健作さん69歳)

1.コロサイの信徒への手紙を続けて学びます。
 前回学んだことは、1章9節にある「神の御心を十分に悟り」、また10節の「神をますます深く知るように」という箇所でした。
 ここに出てくる「悟る、知る」はギリシア語”エピグノーシス”という言葉で「体験的に覚える」という意味だと申しました。体験的に。(ー間を置くー)

 職人さんは、仕事を体で覚えるそうです。
 それになぞらえて言えば「神を知る」ということも「体で覚える」ということです。特に「神を知る」ということは、イエスによって示された「他者のための神」「愛の神」を知るということです。つまり、自分の利益のために神を引き寄せる知り方ではなく、自分を反省し、顧みる行動を促す知り方が、”エピグノーシス”すなわち「知る」ことの意味でした。そのような「知り方、悟り」はなかなか難しいのです。でも「どんなことにも根気強く耐え忍ぶ」という時間を掛けることによって達成されるのだ、と教えられていました。

 小塩力牧師の説教ではそれは「恩寵の品位に添う」ことだと言われていることもご紹介しました。そのような信仰生活を目指したい、励んでいきたいと申し上げました。

 永六輔さんの『職人』(岩波新書)という本を見ていると、職人は若くても老巧(ろうこう)じゃなければ駄目だ、というくだりがあります。老巧というのは経験を積んで物事に熟達している様を言うのですが、信仰も神の恩寵へと引き入れられていくことにおいて、老巧でありたいと願うものです。

2.コロサイ書1章15節から20節は、初代教会に伝わっていた「キリスト讃歌」。
 前半(15-18a)は先在のキリストが全被造世界の創造の仲立ちをすると。当時のユダヤ教の「知恵」の讃歌が下敷き。後半(18b-20)はキリストによる和解を讃える。被造世界はこれで調和と秩序を保つ。

3.大変思弁的な詩に、コロサイの著者は18節の「教会の」と20節の「十字架の血によって」を付け加えることで、「からだ」を宇宙論から教会論へと転換させる。また和解に「十字架の血」を補い、一人の人の死の重みを入れ込む。創造と和解の信仰を頭での理解から「体での体得」へと方向づけている。

4.22節は「和解」の信仰を再度強調。「今や、神は御子の肉において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(コロサイ 1:22、新共同訳)。

5.「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり」(コロサイ1:23)。建築物の安定した土台のイメージがある。

6.「習うより慣れろ」という諺がある。意識を超えた認識。

7.マーガレット・F・パワーズの詩「あしあと」。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとがのこされていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらいとき、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたは、なぜ、わたしを捨てられたのですか、
 わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みのときに。
 あしあとが一つだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

(2003年5月11日 川和教会礼拝説教要旨)


説教原稿は7ページ。

礼拝説教

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