新春随想《ヨハネ 1:14》(1993 週報・宗教とは)

1993.1.3、神戸教会
降誕節第2主日・新年礼拝

(神戸教会牧師16年目、牧会35年、健作さん59歳)

この日の説教、詩篇 33:12-22、マタイ 1:16-17、「身分の闇」岩井健作


「言葉は肉体となった」ヨハネ 1:14 

 ”そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。”(ヨハネ 1:14、口語訳)

 ”言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。”(ヨハネ 1:14、新共同訳)


「宗教に未来はあるか?」

 こんな一文を、宗教人類学者・中沢新一氏が書いている(『ケルビムのぶどう酒』河出書房新社 1992)。

 もちろん、中沢氏は18世紀以降に宗教を激しく否定・批判してきた啓蒙主義以後の科学と技術中心主義、あるいはマルクス主義が、このような問いの上では勝負をつけてしまっていることを熟知した上で、改めてこの問いを問うている。

 自由主義はコミュニズムに勝ったといわれるが、中沢氏は次のようにいう。

 ”自由主義そのものが、調子のいい掛け声とは裏腹に、着実に生命を閉じようとしているのが、今なのだ”

 人間の知性の形を決定してきた近代的な原理が、土台から揺らいでいるという。

 もちろん、昔ながらの宗教思想が、だからといって復活するのではない。

 しかし、科学の内部には「神秘の認識法が確実な基礎と正確な表現を与えられて戻って来ている」という。

 それは長らく宗教の中で保存されていたものだと。

 そして中沢氏は次の言葉で結んでいる。

”「宗教に未来はあるか?」この質問は、その意味を変化させ始めている。ひょっとすると人類は、今や初めて、宗教とは何か、を理解し始めているのかもしれない。”


「宗教に未来はあるか?」

 この問いに対して、私は二つのことを問われている気がしている。

 一つは、まだ抜けきらない昔ながらの宗教(教義・制度・儀礼が、モダニズム化を含めて、固定的になっていて、変革がなかなか進まない)をどう考えるか、ということと、「長らく宗教の中で保存されてきたもの」とは何か、ということである。


 第一のことは、それぞれが自分の生存の根拠としている、具体的な宗教に関わりつつ、そこでやっていくしかない、ということだと思う。

 私は、それを「日本基督教団(各個の教会の課題を含めて)」を場として負っていくことだと考えている。

 第二のことは、キリスト教信仰で「神と人との関わり」として表現されてきた、多面な信仰表現・神学の奥底にあるものに迫ることだと思っている。

 これは宗教の過去を学ぶと共に、宗教を含めて問題の解決をしてゆかねばならない、現代のあらゆる人間に問われる領域に、相関的に迫ることであると思う。

 包括的よりも個別的に、全体的よりも部分的に、多数の視点より少数の視点で、ということになろう。


 言葉の領域ではなく、肉体の領域で、といったヨハネ福音書の思想は、そういう意味の問いを投げかけている。

 そして、それが、イエスそのものに向けられているところに深い示唆がある。

 何故、イエスなのか。

 そこを深い神秘とすることに、「信仰(宗教)」がある。

(1993年1月3日 神戸教会週報 岩井健作)


1993年 説教

1993年 週報

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