1990年11月23日 日本基督教団兵庫教区主催、
第5回「障害者差別問題」シンポジウム 開会礼拝説教
シンポジウムへのお誘いの文章、これは委員会が作ったものですけれども、それを読みますと、弱者を差別する体質というものについて4行目のところにこう書いてあります。
「それは社会構造の問題だけでなく、宗教意識そのものの中にも息づいていることを感ぜざるを得ません」そこを考えるのが今日のシンポジウムだと考えます。そこまで問題を掘り下げられるかどうか、なかなか難しいとしてもそちらの方向に向いていくという事が大切だということを準備の中で教えられました。
さて第3との関連(昨日から行われている「大嘗祭」との関わり)のことから考えますと、キリスト教というものは、人間の上下関係構造、つまり天皇の側へ力を貸すものなのか、それとも被差別者の意識と共にあって差別を無くしていく側の力になるのか、皆さんはどちらであるとお思いでしょうか。もちろん差別を無くす側だというふうに言いたいのですけれども、必ずしも歴史の中ではそうとばかり言えないようです。つまり、差別を増幅していく側と差別を無くしていく側と、相反する2つの方向がキリスト教の中に混在していると思います。私は自分の思いでは「天皇」は制度としても意識の問題としても廃絶に向かっていかなければならないと思っていますが、まず私どもはそのことをキリスト教の内側の問題として考えていかねばならないという気がいたします。実はこの2つの流れは古くすでに聖書の中にも出てまいります。先ほど読んでいただたいマルコ福音書10章42節〜45節もその一つです。45節の下「人の子がきたのも……また多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである」という言葉があります。これは初期キリスト教の大切な信仰箇条であります。イエスが十字架にかかり、私たちの罪のために死んで下さった、それによって神の愛が私たちに示されたという信仰です。これは大変大切な信仰です。特にパウロの手紙ではそのことが強調されています(ローマ書5章8節、ガラテヤ書1章4節、ガラテヤ書3章13節など)。罪を赦されて救いにあずかった者はその感謝を表さずにはおれません。恵みへの応答として愛の行いをするのは当然です。ヨハネ第一の手紙の4章11節は「神がこのように私たちを愛してくださったのであるから、私たちは互いに愛し合うべきである」と愛の行いつまり倫理が信仰の応答や感謝として出てくることが記されています。これはキリスト教の大切なこととして、皆さまがよくご存知のことです。しかしそれは大事なだけにまた、ここに一つの落とし穴があります。そこにマルコ福音書の著者は焦点を当てています。その落とし穴について語っているのが、このマルコ10章42〜45節だとある著名なマルコ福音書の研究者は述べております。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコによる福音書 10:42-45、口語訳)
落とし穴というのはどういうことでしょうか。それは人間というものは、自分の生活の経験領域だけで相手のことも考えてしまって、その領域で愛の行いに励んでしまいがちだということです。ですからマルコ福音書を書いた著者の頃の教会でも、イエスは多くの人の罪のあがないとして自分の命を与えて下さったのだから私たちも互いに愛を実践しよう、と励んだと思われますが、それが教会に来ている人の間に限られたり、自分と同じ程度の暮らしをしている人に限られたり、交わりのある人の間に限られてしまいました。そこだけ見ればきっとよくやったのだと思います。ところが、そこだけやっているということは、目の届かないところで差別される人がいてもそれは関係がないと思ってそのままにしておくことになります。そこに気づいたマルコ福音書の著者は、そういう倫理のあり方では、ある部分では愛の実践がなされていても、もっと大きな社会構造の中では差別されている人のことはそのままになっているから、愛の実践が差別を温存する方向に働いてしまうのではないか、と問題を提起しているのです。
実際にイエスは身を低くされて、その時代の最も弱い人たち、ハンセン病患者、精神障害者、被差別者、遊女、そしてユダヤ社会から疎外されている「地の民」といわれた人々の苦しみを、共に担われました。<そのイエスに目を注ぐように>これがマルコ10章42〜45節の指摘です。
ここでマルコ福音書は異邦人の支配者、つまりローマ皇帝とその権力に繋がる総督が実際にどのようなことをしているかを見抜いています。またその下にあってユダヤの指導者たちや"偉い"人たちが民の上に権力をふるっていることも見抜いています。と同時に、権力の下で苦しんでいる人たちを見ています。それは44節の「僕(しもべ)」と訳されている言葉です。元々のギリシア語は「 ”ドゥーロス”(奴隷)」という言葉です。身代金であがない出されないと自由になれない奴隷のことです。つまり神への感謝として愛の行いをするからには、最も差別されている奴隷となりなさいとイエスが言われた、その言葉を思い出しなさい、というのが44節での主張です。
あがないによる恵みで救われたから、愛の行いをするという宗教意識では差別はなくなりません。あがないによる恵みで救われたのだから、そのあがないを現実の奴隷にまで徹底することがイエスの業と同時に神の業なのだということをマルコは述べています。社会構造や権力構造そのものが造り出す苦悩に触れない、ある領域での同情は、差別を再生産させてしまうということです。宗教はそのような作用を持ってしまうことを我々は知らねばならないし、マルコ福音書はそのことを突いているわけです。
(続きます)


