1990年11月23日 日本基督教団兵庫教区主催、
第5回「障害者差別問題」シンポジウム 開会礼拝説教
『第5回「障害者差別問題」シンポジウム報告書』p.4-10 掲載(1991年5月19日発行)
日本基督教団兵庫教区「障害者差別問題」シンポジウム実行委員会
(神戸教会牧師12年、健作さん57歳)
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコによる福音書 10:42-45、口語訳)
このたびは「障害者差別問題シンポジウム」の、とっても大切な役割を、私には荷が重いと思いながら、あえてお引き受けを致しました。それはこの業(わざ)に参加させていただく中で、多くのことを学ばせていただけるであろうという思いがあったからです。すでに準備会に参加する中でたくさんのことを教えられました。その中からまず3つのことをお話ししたいと思います。
第1は、障害者差別問題という捉え方です。昨年の第4回までは確か「障害者と教会問題」という捉え方でした。その考え方によれば、あたかも「障害者」という者が、まず存在するようでした。でも私たちは実際いろいろな方と接し、交わりを持たせていただいて、まず「障害者」が存在するという思いがたいへん間違っているということを教えられてきました。そこにいるのはAさんであり、Bさんであり、誰もがそうであるように、実際の不自由さや悩みを携え、またそれを克服して一途に生きている方たち、あるいは神に生かされている方たちであります。まず一般的に「障害者」というものが存在するのではないということであります。もし存在するとするのであるならば、障害者差別が存在するのであるということです。そして差別というものは障害者差別でも、民族差別、女性差別、部落差別など、どの差別でも差別している側はほとんど感じなくても差別されている側ではその数十倍も鋭く痛みが意識されているということです。意識の鈍い差別者側が、意識の鋭い被差別者側へと、どのように自分の心を繋げていくかというこの事が大事だということを考えさせられました。差別をされている人たち、被差別を鋭く意識している人たちに助けられて、差別者が自己変革を遂げていくことが大切であると教えられました。
もう少し他の表現をするならば、私たち日頃の自分のありようを考えてみると頑固でなかなか変革しにくい自分と、相手の気持ちに寄り添い相手の心の中に入っていく自分というものがあるとすれば、相手に寄り添っていく、もう一人の自分を大切にしていくことではないかという思いを教えられました。
第2のことですけれども、今日の会合は「シンポジウム」と名付けられています。シンポジウムの元々の意味は古代ギリシアでは酒宴・お酒の宴・饗宴という意味で、酒盃を交わしながら、ある主題について討論をするということです。討論会という意味です。討論会ですから、言葉を交わす会合です。準備会の時にある委員の方が「自分は重い知恵遅れの方たちと生活をしているが、その人たちにこのシンポジウムのように言葉でやり取りをする会合というものは、どういう意味を持つのであろうか」と言われました。これは大変に大きな問題提起です。私たちがやっているシンポジウムというのも人と人とのコミュニケーション、表情や身振りを通しての交わり、もっと深く考えて、そこにその人が存在しているという、そういう存在からくる交わりというのを考えるならば、今日やっていることはほんの一部であり、言葉で交わされるというのは、本当に上澄みのような部分であると気づかされました。どのような人も、差別の現実にもかかわらず共に存在するという、そのことの上でこのシンポジウムが成り立っているという、シンポジウムの根拠と限界というもののわきまえを失ってはならないということです。
第3番目は、昨日から行われている「大嘗祭」とのかかわりでこのシンポジウムが開かれているということであります。「大嘗祭」については、政府は「新天皇が五穀豊穣を祈る儀式」だと言っていますが、実際はそうではなく「新天皇」が「皇祖霊」と交流することを通して「皇祖天照大御神」と同格とされ「皇祖神」の再来として神格化されることです。皇室神道儀式です。22億円のお金を用いて3万数千人の警察官が守る中で行われました。憲法に天皇の規定があるというので国民はそれに服属させられるという儀式です。現に差別のある社会構造から言えば、その差別の上下関係の系列という意識構造がさらに強化されるということです。もちろん日本キリスト教協議会や日本基督教団の各教会が一連の「大嘗祭」行事に反対するキャンペーンを通して体を張って戦っていることはよく知られていることでありますけれども、今日は私たちはそういう戦い方ではなくてもう一つ違った仕方で、どうしたら天皇制が作り出す上下関係、人間縦系列、つまり弱者を差別する体質を他人事ではなくて自分の内側をも含めて克服し戦っていけるかということを、共に考えようとする会合なのだという点です。
(続きます)

