1983年11月 No.5、
頌栄短期大学宗教部「チャペル月報」
(神戸教会牧師5年、健作さん50歳)
コリント人への第1の手紙 13:1-8
「愛」とは「他者を生かすこと」である。相手が本当に生き生きしなければ、独りよがりに相手のためだと思っても愛だとはいえない。
かつて『お母さん本をよみなさいっていわないで』(岩波書店)という本があった。幼児が本を読むことはよい事だが、本を読めとあまりガミガミいわれれば本が嫌いになってしまう。お母さんの方で「本を読みなさい」といわないという逆説がわからないといけない。
コリント第1 13章3節では、自分の全財産を人に施しても、もし愛がなければ、無益だという。当時実際に奴隷を自由人にするためにそうした人がいたのだろう。しかし相手がほんとうに自由な人間として生きるようにならなければダメだという。
『園長先生の家庭通信』(山田守著、日本基督教団出版局 1983年)の中に大変感動的なお話がある。2歳児のグループでの運動会の時、マットの上でころがってトンネルをくぐり、一人がワゴンに乗って一人が押して帰るというゲームがあった。普通の組は先に行った子が、車に座って後からくる子を待つのだが、障がい児と組んだ子は先に行って手押し車の後ろに回って待っていた。2歳のその子は誰からも教えられないのに、自分がこの子を乗せて押して帰るのだという役割を心得ていたのである。この園では幼児の自立を大変大事にしており、山田先生も自分の7人の子をそのようにして育てたことが記されているが、自立のあるところでこそ相手を生かすことも養われるのだろう。
このようなことを念頭に置いて4節を読んでみる。「愛」を「相手を生かす」という言葉に置き換えてみると分かりやすい。「相手を生かすことは寛容であり…情け深い…また、ねたむことをしない…」と。そしてこれらの言葉を受け取る受け取り方、読み方を3つのタイプに分けて考えてみる。
第1は、この言葉を◯◯さんには分かってもらいたい、と相手に押し付けて読む読み方である。私たちも知らないうちによくこのようにする。でも相手は生きない。
第2は、一般論として読む読み方である。いいことだと分かっていても力にならない。また相手を生かさない。
第3は、自分のこととして読む読み方である。すると、愛がそんなにたやすく実行できない自分を知らされる。それを聖書では深い意味で「罪」(神との関係が失われていること)の結果だという。しかし、なおこの言葉を、罪人もゆるされ、愛についての可能性を与えられている、と聴き取るのが聖書の読み方だ。神の審きと赦しの間で聴くということである。そこでこそ、自分のこととして読むという自立が促されるし、またその自立が相手を生かすことになる。そして神の審きと赦しの間に立つことを信仰という。
(岩井健作)
