1983年2月10日「基督教世界」巻頭言
(神戸教会牧師5年、健作さん49歳)
最近、吉田満著『平和への巡礼』(新教出版社 1982)を読んで、戦中派に対して戦後派とは何であるのかを考えさせられた。
吉田氏は、1923年(大正12)生まれ、東京帝国大学法学部在学中に学徒兵として太平洋戦争に出陣、戦艦大和に副電測士として乗船した。1944年(昭和19)、沖縄特攻戦に参加し、九死に一生を得て生還、敗戦、復員。戦後日銀に入社、諸部門を歴任し、監事となった人である。その間、著作活動を続け、名高き『戦艦大和ノ最期』(創元社 1952)をはじめ、数々の作品を発表した。氏は戦争が刻印した死を乗り越える道を求めてカトリックに入信し、後に鈴木正久の牧する西片町教会に移り、かの「教団戦責告白」を支持し、その牧会を助けた。経済人としては、戦後日本の復興を担った第一級の人物であった。氏が56歳の若さで死去した際、その葬儀に参列した作家•江藤淳は、氏がキリスト者であることをはじめて知ったという話を側聞したが、それほどに三足の草鞋をそれぞれに履いた人物も珍しい。『平和への巡礼』はその一面、キリスト者•吉田満の論考を集めたものである。
そこに「戦中派の求める平和」(1963)の一文がある。氏は戦争体験によって課せられた問題を二つに整理する。一つは、戦争を嫌悪しながらも戦争協力をさせられていくに至った問題、個と公、国家と一市民の問題である。第二は、生死の体験の価値づけの問題である。氏の意識は後者に集中する。戦後派の私が読んで意外だったのは、戦闘のさ中で氏の経験として残っているものが、死の不安や脅威の実感ではなく「生」の欠如の実感だったという点である。「透明に輝く視界の中で私の見たのは、死の空しさではなく、生のむなしさであった。私に欠けていたのは、死に打ち勝つ勇気ではなくて生を直視する勇気であった」(同書 p.121)。死をいざなう激浪に漂流する中から辛うじて生にたぐり寄せられたのが、同僚への責任感という日常生活の中でささやかに積み重ねてきたものであったというのも思いがけなかった。氏は戦後、その日常性への回帰の質を探って信仰に入り、戦後日本の体制に身を置きながら、計り知れない矛盾に勇気をもって耐え、自らの戦争責任を問い続けるのであった。氏は鈴木牧師の「戦責告白」を信仰告白としてよりも日本の文化や文明に対する内的批判として捉え支持した人であった。
さて、私など戦後派にとっては従来、戦中派の大人の戦争体験に比べると、自分の戦争体験は子どもの、小さい、秘かなものとしてしか考えてこなかった。しかし、吉田氏が戦争体験とその責任の自覚を何よりも日常性の中で問い返す生き方をして来ているのを感じる時、戦後派の戦争体験とその戦争責任を固有なものとして捉えなおし、思想化してゆかねばならないと促されることしきりであった。
私たちの世代、つまり太平洋戦争下、小学生だった世代の共通の体験は何か、と言われれば、それはお腹をすかせたことであった。食糧不足、日常的な飢えと言ってもよい。何故戦争が構造的に飢えを招くのか、その解明は専門家に任せることとして、戦争が体験としては民衆、特に子どもの飢えとして体験された事実を忘れてはならないと思う。それは原体験でものを考える時、思想化が始まるからである。私は今までどちらかと言えば「戦責告白」の問題を国家にからめられた教会や市民のあり方への批判的視点の獲得の問題として考えてきた。吉田氏も戦争体験から課せられた責任の問題を一応は「国家と一市民」の問題として整理はしている。しかし氏があまりにも体制側の経済人であったためと、氏にとって生死の内面的体験が大きかったため、国家との問題は日常生活の「忍苦」に吸収されてしまい思想化されなかったのではないか、と感じる。代わりに戦後民主主義の中でそのことを論じやすい中で平和運動に携わってきた者として、自分の戦争への原体験よりも国家に絡めとられまいとして「戦責」を引き寄せて来たことも事実である。しかし、吉田氏の論文を読みながら、戦後派は戦後派のささやかな体験の中に、戦争と平和に関わる自分の責任的あり方を立てねばならぬことを促された思いがする。
世界は今、飢餓線上をさまよう3分の2の人々と私たち(大部分のキリスト者もそこに入るが)肥満症治療が話題となるような3分の1の人々とに分かれている。後者に属しつつ、その状況を生きのびていることの責任を自覚することは、「飢え」の戦争体験の思想化として考えられねばならぬであろう。日本基督教団も工業化の波の中で農村伝道の質を失ってきたし、都市教会もわずかな例外を除いて食糧問題に目覚めている訳ではない。今日、危険な反動化、軍国化の中で、生活文化の創造的営みを含めた「戦責告白」の実質化を探っていきたい。食べることへの驕り高ぶり放漫のあるところに平和はない。
