1982年2月21日 神戸教会礼拝説教要旨
週報掲載
(神戸教会牧師4年、健作さん48歳)
”イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。”(ヨハネ 6:12、口語訳)
日毎の糧に事欠くことさえあったというユダヤの民衆を、いとおしまれたイエスの振る舞いを伝える物語として、4つの福音書はそれぞれに、この「五千人の供食」の奇跡物語を収録している。ヨハネの物語にも細部を見ると他にない特徴がある。例えば、他の3福音書(マタイ14章、マルコ6章、ルカ9章)では「麦のパン」といっている(このことを中心とした説教は、1981年5月24日説教要旨を参照)。また、この物語における弟子たちについての描写や役割について見ると、3福音書ではパンを配るなど多少ともイエスの手助けをしている気配があるのに、ヨハネではピリポやアンデレという名が挙がりながら、弟子たちはパンを配る役割すら与えられていない。しかも「むだにならないように」という言葉はヨハネにのみ記され、また「パンくずのあまりを集めなさい」という弟子たちへの指示も、ヨハネの特徴である。これを手がかりとして、この物語を通じてヨハネが語ろうとすることを探ってみたい。
7節で、ピリポはイエスに悲観的な答えをする。元来ヨハネの描くピリポ像は引っ込み思案な(ヨハネ12:12)、頼りない者(ヨハネ14:9)である。イエスに身近な弟子でさえも「パンの奇跡」の意義が分かりはしないと告げているように聞こえる。その頼りない弟子に「パンくずのあまり」については、「集めよ」と積極的な指示があるのはどういうことだろうか。
宴会で食べ物の残りを集めるのはユダヤの普通の習慣であったという。「あまりもの」が宴会の給仕たちや家族たちの「おさがり」となったのであろう。ユダヤではこの「あまりもの」のことを「ペーアー」といい、それは「隅」という意味で、刈り入れの時、畑の隅の方を少し残しておき、それは貧しい人や寄留者が恩恵に与るべきものとされた。「あなたがたがその地の実りを刈り入れるときは畑の隅(ペーアー)まで刈り尽くしてはならない」(レビ19:9、申命記24:19-)と言われている。そしてそれは、かつてこの民族がエジプトにおいて奴隷であり貧しき者であった(多分わずかの残りものが命を繋ぐ経験を持ったに違いない)ことを覚えるためだという。
とすると、ヨハネの語らんとすることは、弟子たちが「ペーアー」に示された恵み、残された恵み、隅々の恵み、パンくずの余りに込められた恵みに目を凝らし、それに与る者になれということである。12の籠にいっぱいになったことが12弟子がそれで満たされたということであるならば、弟子は「ペーアー」でこそ養われるということである。余滴の恵みに心を潤すという、ゆとりある生き方が、一見頼りないと見える弟子たちに指示されているとすれば、それは私たちへの大きな励ましである。
(1982年2月21日 神戸教会礼拝
説教要旨 岩井健作)

