結実(1981 説教要旨)

1981年10月25日 神戸教会週報掲載
礼拝説教要旨

(神戸教会牧師4年、健作さん48歳)

ヨハネ福音書 15:1-11

 人は好ましいこと、めでたいことには喜びを覚える。悲しいことつらいことの中では喜びを語りはしない。だが、イエスは弟子たちへの訣別の言葉の中で「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたのうちにも宿るため」(ヨハネ 15:11)と語る。

「わたしの喜び」とは何だろうか。

 別離を契機として弟子たちには「助け主」が与えられ自立が促される(16:7以下参照)ということもある。またその自立は、イエスが弟子の足を洗ったという、あの仕える者の姿が弟子たちの心に想い起こされて活かされていくことへと向かうだろう。

 他の人に関わる労苦を人知れず負うということは、この世の尺度から考えれば虚しいものと思われがちである。しかし、そのような生き方にこそ尊いものがあるということが、理屈ではなくて、現に起こっている。このことが喜びなのである。

 9節「わたしの父が愛されたように、わたしもあなたがたを愛した」。この出来事を映しだすスクリーンが我々の側にないということは、神の愛が存在しないということではない。むしろ、見えないからこそ尊いのではないだろうか。

 私たちは文化的、経済的、社会的価値として目に残るものを作り出すことには熟達した時代に生きている。ヨハネの時代も変わりはなかったのだろう。ヨハネは1章で「すべての人を照らすまことの光があって世に来た……が世は彼を受け入れなかった。しかし彼を受け入れた者は、血すじによらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである」と、この福音書のメッセージの根本を語る。

 さてヨハネ15章の「実を結ぶぶどうの木」の象徴説話はあまりにも有名な話であるが、そこにはまことならざるぶどうの木への批判が込められている。それは他ならぬイスラエルの歴史である。ぶどうの実を目に見える生産としか考えない者には、この木のイメージが宿すもっと豊かな神の祝福は読み取れないであろう(アモス5:11)。

 人は自己の罪をも含めて、深い神の愛(キリストのあがない)の内にあることを、一見さりげなくつながっているぶどうの肢のつながりに見ないだろうか。

 そこには、自己完結性が打ち破られた彼方に結実する生の豊かさがある。

(1981年10月25日 神戸教会礼拝
説教要旨 岩井健作)


説教原稿は15ページ。

1981年 説教

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