大麦のパン五つとさかな二ひき(1981 説教要旨)

1981年5月24日 神戸教会礼拝説教要旨
週報掲載

(神戸教会牧師3年、健作さん47歳)

ヨハネ 6:1-14

 ヨハネ6章のイエスは目を高くあげ自分の方に集まっている群衆を凝視する。そのまなざしは群衆の「食べる」ことへの憐憫に満ちている。

「あなたは園の木のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」(創世記2:15)。この言葉に象徴されるように、聖書の最初の物語、創造説話では、食べることは、神が命じ、統御し、配慮される、祝福のことであった。また「何を食べようか、何を飲もうかと…思いわずらうな。空の鳥を見るがよい…天の父は彼らを養っていて下さる」(マタイ6:25)とのイエスの言葉も、食べることは天の配剤に委ねるべきことであることを告げる。

 ところが実際は食べることに事欠く群衆がいる。「五つのパンと二ひきのさかな」の物語も、聖書学的な分析をすれば、これは初代教会の聖餐の意義を教えるための説話であることは疑いない。十字架上で裂かれたキリストのからだは「いのちのパン」である。「神のパンは天から下ってきて、この世に命を与える」(ヨハネ6:33)とある。現実のパンがしるし(セーメイオン)となって、信仰の真理を示す。そこに奇跡物語のしるし性がある。しかし、ひもじさを抱えてなおイエスに何かを求める群衆と、大麦(小麦の美味とは別に、貧しい者の食糧、家畜の飼料)のパンの香りとを、このテキストから消すことはできない。

 ピリポやアンデレは食べることを経済の問題、量の問題と考えた(ヨハネ6:7-9)。しかし、イエスは食べることを、神の祝福として回復させる。彼はユダヤではどの家庭でも家長がする仕草をもってみんなにパンを分け与えた。すなわち、食べることで人と人との深いつながりを新しい交わりとして回復する。質素な大麦と干し魚二ひきも、イエスがそれを手に取り給うとき、5千人もの人の間に温かさが通い、感謝が生じる。不思議だ。それは驚くべき出来事(奇跡)だ。イエスは食べることが「神の祝福」の問題だと悟らない弟子たちに駄目押しのように「少しでもむだにならないように」とパンくずを集めさせる(ヨハネ6:12)。食べることへの驕り高ぶり、放漫が戒められる。今私たちは飢餓線上をさまよう3分の2の人類をよそに、肥満症治療中の3分の1の人類に属している。後藤美喜著『聖書の食養法』(1981 柏樹社)には「肥満と背信」という痛烈な章がある。イエスが群衆を見つめ食べる問題を神の祝福の問題にまで高め給うた所へと向かって生かされたい。大麦のパンや干し魚の香り味わいに対する新鮮な感覚を失うまい。

<祈り>食べることに事欠く人々に心を開きつつ、主が祝福される日毎の糧への味わいをもつことを得させて下さい。

(1981年5月24日 神戸教会礼拝 
説教要旨 岩井健作)


説教原稿は14ページ

1981年 説教

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