1981年4月19日(イースター)発行、「神戸教會々報」No.96
(神戸教会牧師4年目、健作さん47歳)
一粒の麦は地に落ちても死ななければ一粒のままである(八木誠一訳)。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(口語訳)。(ヨハネ12:24)
この訳は、ヨハネ福音書の神学をよく加味した訳だと思う。日本聖書協会口語訳と比べると、「落ちても」の「も」が一字多いだけである。だが、この「も」を取ってしまって「地に落ちて死ななければ」と続けると、地に落ちることと死ぬこととは連続的につながってしまい、「肉となった言が、さらに死を通して神の栄光に高められていく」というヨハネの持ち味がぼかされてしまう。種が地に落ちただけでは実を結ばない。落ちた土壌で、やがて種が殻を破る時が来る。落ちることとこの時とは連続的であるようだが、ヨハネではそうではない。時は切迫感をもって彼方から来るものとして描写されている。ヨハネはイエスの言葉をこう伝える。「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」(ヨハネ 12:27)
私は自分を省みて、種が地に落ちることと死ぬことの連続性を充分に批判的に捉え切っていない姿を、この短い「も」の中に幾度となく感じさせられてきた。例えば、伝道牧会への召命を感じてこの道にはいりその仕事にたずさわるということは、種が地に落ちただけのことである。そこで種が殻を破り死ななければ一粒のままだ、ということに気づきはじめるのに10年もかかった。なお、未だ時の切迫を待つ者に過ぎない。かつて、原爆被爆者孤老の問題を共に担う目的で、教団は特別養護老人ホーム「清鈴園」を建設した。その建設支援に身近に関わった者として同じことを思った。建設と奉仕がはじめられたことは、土の中に種が落ちたにすぎない。しかし老人たちを通して奉仕者自身が自らの殻を破って変えられていく時、はじめて実が結ばれるのだと。
教会での奉仕にしても同じではないか。奉仕の場を持つということと、その場で自分の殻を破るということは異なることである。自己拡充の延長に奉仕が引きずり込まれないために、歯止めの自覚が必要である。
近代社会の中での個の確立と促す契機となったところに近代におけるキリスト教信仰の積極的意義を認めるとするならば、そこでもまた個の尊重と確立は、種が土の中に落ちたことではあっても、それが死んで実を結ぶことと捉えねばならないのではないか。近代日本における教会の歴史を見る視点としてそのことは重要だと思う。
関連して、マルチン•ブーバーが『人間とは何か』の中で「自己の真正さと十全さとは、自分自身との関わりの中では決して証言され得ない。むしろ、それは完全なる他者性、無名の群像のカオス(混沌)との交わりの中でこそはじめて証明されるのである。」と言っている言葉を思い起こす。「完全なる他者性」は「神」の問題を秘めている。「完全なる他者」が一方で無名の群像のカオスの問題であり、他方で「神」の問題であるところにこそ、現代の問題がある。それにしても、この「完全なる他者性」と出会う地点からは、ほど遠くにいる自覚を持たざるを得ない。何故なら他者性とは自らの殻を破ることを通す以外には出会えないものであるからである。
しかし、最後にもう一度このテキストに目をとめたい。「しかしもし(八木誠一訳にはこの「もし」が訳されていない)死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と言われる方、イエスを信じることだけは許されている。そうして、そのように呼びかけ招いて下さる方としてイエスを信じることからだけ、私たちの可能性は開かれている。
(牧師 岩井健作)
