1973年12月1日「働く人」No.189号 掲載
(日本基督教団社会委員会・伝道委員会 発行)
(岩国教会牧師8年目、健作さん40歳)
清鈴園を支えていく教会の側として、その関わり方について、考えてみたいと思う。
1.老人の生き方を通して
若い時から自分で物事を考え、決断してきた人。また困難にぶつかった時にも、それと取り組むことで人間としての自立や成熟を求めてきた人。こういう人はたとえ身の回りを他人の世話にゆだねなければならなくなったとしても、その人ならではの生き方を発揮することができるに違いない。その意味からすれば、老人の生き方は若い日々の集積でもある。教会が信仰の試練をくぐりぬけ、たとえばアブラハムをはじめとする聖書の老人たちのように、成熟を得た老人像を証しとして示し得る時、またそのような老人たちの信仰を中心にすえて交わりを作り出している時、たとえ清鈴園とは距離が遠くても、身近な関わりを持っていると思う。
私たちの教会は清鈴園に近いのだが、まだ清鈴園を訪れる機会を持たない老人がいる。たとえば86歳になるT夫人もそうだが
原型に還元されし安らぎと独り茶を喫(の)み 独り花見る
ひねもすを何してすごすと人に問われいとまなしとは言いそびれたり
と歌を詠むTさんの生き方は、清鈴園を支援する教会にとって不動の拠点なのである。
2.老人福祉向上のための働きを通して
全国の教会に配布されていると思うが、清鈴園を支える会の機関誌(1973年7月15日号)に蛯江(えびえ)紀雄園長が述べているように、老人福祉行政の貧困というより惨状はひどいものである。特別養護老人ホームは老人医療・介護の行政の貧しさの後始末をさせられているようなものであると彼は言っている。支える会からの経済的支援や職員やボランティアの献身的働きにより本来国家が果たさなければならないものを補っているのが現状であり、その特老ホームにさえ入れない老人がたくさんおり、その介護を家族が負っているのが省みられない。年々わずかなカネの上ずみが福祉関係予算に加えられる位で、抜本的対策はない、加えて一般の意識はでは『敬老』精神が悪く作用して、老人自らが自立して自らの諸権利を守る戦いを進める素地を養っていない。教会が身近な一人の老人の具体的問題に、人権を守る視点から関わっていくとき、それがたとえ話し合いや学習の会一つにしても、清鈴園を支えていく働きとなるだろう。
3.反戦平和の戦いを通して
清鈴園は建設の途上、現在の福祉行政の枠にはばまれて、原爆孤老のみのホームにはならなかった。が、原爆被爆者を軸として、反戦の立場から老人一人ひとりの個人史を見ていく感覚は他の老人ホームにはないものであろう。過去の戦争がどのように一人の人の生活をゆがめ、傷つけたかを知るとき、悲しみと怒りを新たに憶える。私たちの身の回りの老人たちは自覚的に戦争を語りはしないかもしれないが、言葉のはしばしにさえ秘められた苦しみを聞きとる耳をもたねばならない。そして、そのような耳は、現在の反戦の戦いの中で養われる。人権を自覚し戦いとっていくことと反戦とは切っても切れない。教会が反戦平和の戦いをすすめることは、清鈴園を支える土台である。「困っている人に愛の手を」といった助け合いの精神からはじまる社会事業援助的発想で支援が始まったとしても、それを包む反戦平和の自覚へと深めていくことが大切だと思う。清鈴園を支える運動は、そのよう方向性を持たせる力を宿している。
4.原爆被爆者の問題
「原子爆弾によって被爆した私たちは肉親を殺され、自らも病気や生活難に苦しみ、さらに今日では、子供・孫の問題にまで不安はひろがっています。……ところが国は軍人・軍属とその遺家族、戦傷病者、引揚者、農地改革による旧地主への国家補償を行っていながらも、……原爆被爆者に対しては、国家補償に立った援護を、今日までなんら行ってきませんでした。さらに今日、公害裁判の進行によって、加害企業が公害患者へ多額の損害賠償を支払うのを見るにつけ、国家が被爆者に対して充分な援護を講じないことに、やるかたない憤りを覚えるのであります」(原爆被害者援護法制定に関する請願文の前文)
ここに記されたいきどおりは、法廷闘争では「石田原爆訴訟(事務局は広島市国泰寺町二丁目1−19 教育会館内・石田訴訟をすすめる会)によって示されている。原爆行政の不在と人権無視の厚生省を相手どり起これた訴訟に対して、党派の別なく支援が組まれている。このことは、被爆者の人権を守る戦いは、守る側の総カを結集しなければならないことを示してもいる。まして朝鮮人被爆者の問題はそれ以上に困難な戦いである。広島では「キリスト者平和の
会」が中心になり、原爆被爆者救援に取り組み、清鈴園を支える会とも連絡をとっていると聞く。それぞれの教会が被爆者救援運動を知ること、かかわりをもつことも、清鈴園支援の一環である。
5.戦責告白の具体化と清鈴園運動のつながり
教団の戦争責任告白は教団に混乱をもたらしたというが、それは過去への懺悔が現在の行動に結びつかなかったところ(端的には万博参加決議)に混乱の原因があり、現在の行動と結びついて具体化された清鈴園の方は全教団、教界的広がりで連帯を生み出した。考えてみるに、戦責告白は告白それ自身が自己完結的なものではなく、告白を生み出した主体的あり方、告白姿勢とでも言うべきものに意味がある。そのあり方の新らしい具体的展開が次々となされることが大切なのだ。だから、私は「戦責告白」そのものを完結した信仰表明と捉えることには賛成しない。そういう点から考えると、清鈴園も建設そのものが自己完結的に意味をもつのではなく、あれを建て、働き人を送り、支援カンパを送り、それを通して老人福祉という場を限定しながら、被爆者のさしせまった人権を守り、さらにそこから見えてくる問題に取り組んでいく、その取り組みそのものが戦責告白を展開していくと考えている。だから、清鈴園を一つの社会福祉事業支援という側面だけで捉えるのではなく、教会が清鈴園支援をすることによって、自からの信仰の告白姿勢を問いなおしてゆくような関わり方をしていく必要があるだろう。
例えば、清鈴園支援などの街頭募金やバザーその他の応援活動を組むにしても(そういうことはどしどしやった方がよい)、生活的にも、能力的にもできる人だけが浮かび出てくるようなやり方ではなくて、いと小さい者の奉仕も「天に宝をつむ」ものとして憶えられていくような、信仰の共同体ならではの組み方にいつも立ちかえって、その働きを問い直してゆくことが大切なのである。
6.市民的運動へのつながり
人権を守る一つの運動のなかで自らのあり方を問い「福音」に基づいて自らを自覚していく生き方を失わないことが、市民的権利を守る運動のなかでのキリスト者のつながり方の根だと思う。清鈴園を支えることは、社会福祉のことなので、多くの人に参加を求めやすい。それだけに教会は清鈴園支援とは何なのかをよく問いつつ運動を進めねばならない。長く持続し、かつ教会がそれで豊かになるような運動を進めたい。
(1973年 岩国教会牧師 岩井健作)
(サイト記)以下の「清鈴園」の解説は私の失念で出典不明。m(__)m
清鈴園(せいれいえん)
「戦争責任告白」を発表した教団議長・鈴木正久氏は西中国教区の教師研修会講師として広島に来た折り、この「戦争責任告白」の具体的証しとして広島の原爆被爆者の孤独な老人たちのために「老人ホームの建設は出来ないか」と提案した。
これを杉原助(たすく)牧師(岩国東教会)、渡辺正治氏(広島大学 原爆放射線医科学研究所 教授、岩国教会員)らが中心となって、教区の教会が受け止めた。1968年、第15回教団総会で建設が決議され、社会福祉法人 西中国キリスト教社会事業団が母体になって、全国の教会がこれを支え「特別養護老人ホーム 清鈴園」が開設され、竣工開園式が行われたのは1971年9月26日であった。
特に、西中国教区の諸教会は渾身の力を注いで取り組んだ。その取り組み方について教団社会委員会・伝道委員会発行の『働く人』(1973年12月1日、第189号)で岩井が論じたのがこの論考である。数年前、清鈴園主催のキリスト教社会福祉関係の研修会で「戦争責任告白」との関連を記憶すべき趣旨の講演をした。

(サイト記)西中国教区の牧師有志は、当時広島大学教授であった佐竹明氏(後にフェリス女学院大学学長)を囲み、新約聖書学をドイツ語原書で学んでいたようです。参加されていた杉原助牧師は後に大著『ヨハネの福音書』(R•ブルトマン著)の全訳を完成出版(日本基督教団出版局 2005年)しています。

自分の信仰告白(1971 戦争責任告白)
1971年10月号「呉YWCA会報」掲載