岩国に来てみませんか – 基地があるから、そして反戦活動もあるから(1970 西中国教区)

日本基督教団 西中国教区 社会部通信
1970年5月28日号 巻頭言

(岩国教会牧師、健作さん36歳)

 慣れというものは、こわいものだと思います。岩国に住んでいると、基地に対する感覚が日常的なもので慣らされてしまうからです。私は川下(かわしも)にいって、はじめて基地をみたときの感覚をいまだに忘れることができません。金網越しに緑の芝生がしきつめられていて、そんなにりっぱではないアメリカ風のペンキの建物が低く点在していて、正直なところ、すごいなんていう気持ちは起こりませんでした。しかし目を移して、星条旗が瀬戸内のさわやかな風にへんぽんとひるがえるのを見たとき、その物理的な距離の近さと心理的・精神的距離の遠さを自分の身体で受けとめることが出来ないで身がこわばるという感じでした。そして「ああ、ここに安保がある」という思いを実感として感じました。違和感というか、あってはならぬものがそこにあるという感じでした。どうしてそんな感じをもったのかということを、その時自分なりに考えてみました。


 外国軍隊の旗の存在をこんなにも近く許しているのは、何といっても「安保条約第6条です」。では安保は何のためにあるのか。いろいろきれいな言葉で説明のしようはあるでしょうが、つきつめればアメリカの極東戦略のためであり、それを必要とするアメリカの帝国主義的な社会・経済・軍事・政治の体制を守るためであり、同時にその体制の中で自己の利益を黙々と太らせている日本の独占資本とそれに癒着した国家の体制を守るために他なりません。そして、その体制の維持のためには、甘いアメをしゃぶらせられたり、ムチでしめあげたり、人間がボロくずのように使い捨てられ、その体制に敵対するものは、あらゆる手段で抹殺されていくという現実があります。その現れとしての安保の物質的近さをあの旗に感じたのです。


 それに対して、ごく素朴な人間の感覚があの旗への無限の距離を感じさせたのでした。それは「小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」(マタイ 18:14)という感覚です。その感覚は、安保を既成事実として許容しない憲法感覚であり、素朴な反戦感覚です。

 あの一片の旗に感じた物理的な近さとしての現実と人間の重たさへの素朴な感覚をどう切り結んでゆくかが重大です。

 そこで一番問題になるのは「基地はあってはならないものだ」という正常な感覚がいつの間にか、日常的なものの中ですり減ってゆくことです。感覚と言いましたが、このことが大事だと思います。もちろん私は思想だとかイデオロギーを軽視するものではありません。しかし、それはその背後に人間存在の重さに対する感覚があってこそ、それらは生きるものだと思います。

 「岩国に来てみませんか」といったのは、そんな感覚から出発したいと思っているからです。


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