1968年5月12日 岩国キリスト者平和の会々長 岩井健作
(岩国教会牧師3年目、健作さん34歳)
(1967年)(1968年)(1969年)(1970年)(1971年)(1975年)(1976年)
1967年度の歩みは「日本キリスト教団の戦争責任告白」に参加することから始まりました。このための学習活動が例会の基本になりました。これは平和運動におけるキリスト者の原点を見定めていく努力でありました。そして、今まで、本来教会の働きであるべきであったにもかかわらず、教会が主体でなされなかったことが、教会の名と責任においてなされるようになりました。例えば、2月11日の「信教の自由を守る日」の行動等であります。平和の会は側面からそれに加わるようになりました。この変化は重要であります。そこには、キリスト者平和の会の終末論的使命と、キリスト者平和の会の具体的使命をはっきりさせてゆかねばならない今後の課題があります。
ベトナム戦争に対しては国内でも国際的にも反戦の世論は著しく高まりました。アメリカ国内の各種反戦活動、米国教会のジョンソン大統領批判、国際裁判の各地での展開、米兵脱走援助の働き、べ平連の働き、等々に加えて、米第7艦隊の原子力空母の佐世保寄港に対しては、市民レベルにおける反対運動が爆発しました。このような情勢で、ベトナム民族解放戦線の独立の戦いは一層深まり、逆に、パリにおける北ベトナム•米国の和平会談にまで至りました。我々は、あくまで傍観者の立場でなく、民族独立の立場に立って、反戦世論を高める責任を負うことによって、この戦争終結の日まで、自らの戦いを進めねばなりません。特に岩国基地は、ベトナム戦では哨戒飛行基地(「潮」3月号参照)として重要な役割を果たしています。基地撤去・日米安保条約廃棄とベトナム反戦との関連を捉えて、この諸運動に参加してゆかねばなりません。
1970年度の安保改訂の時期には、市民レベルの運動への参加が大きな力を持っていますが、このためマスコミの統制、教育行政等での政府与党の圧力は大きくなっています。このため政党や労組の画一的な運動の組み方に依存してしまわない独自な、市民レベルのエネルギーを吸収できる運動をどう作るかが、キリスト者平和の会等の役割になってくるのではないでしょうか。
原水爆禁止運動においては、中国共産党と日本共産党との乖離から、また新しい混乱が生じましたが、統一への機運は根強く、特に山口県被爆者会館建設をめぐっての広い県民の支援は注目すべきであります。この運動の中での無党派グループ(被爆者・大学人・宗教者らの26人委員会)の責任と意義は重いものであります。私たちが原水禁に取り組む大切な通路、方向でありましょう。
靖国神社国家護持反対運動が進められています。これによって憲法精神をなし崩し、旧い天皇制国家の国民精神の基盤を回復しようとする政府与党の意図と対決することになりますが、戦没者遺族に絡んでいるだけに、日常的な戦いには厳しいものがあります。教会内でもなかなか困難です。しかし、私たちは信仰の本質に立ち帰って、市民的自由の実質を守るための前衛の戦いであることを自覚し、がんばりましょう。
第3回 世界キリスト者平和会議(プラハ会議)に日本代表の一人として杉原助牧師(岩国東教会)を送り、よき成果を与えられたことは感謝です。① 広い層からの支援カンパ、② 従来と比べ代表団に教会代表的性格を一層加えたこと、③ 地道な実践に立ってこそ発言に重さと意味のあること、④ アジアの平和について日本の責任を果たさねばならぬこと、等々、杉原牧師の報告の中から教えられます。
1968年5月12日 岩国キリスト者平和の会会長 岩井健作
(1967年)(1968年)(1969年)(1970年)(1971年)(1975年)(1976年)
1977年8月7日発行「18年の軌跡(年岩国キリスト者平和の会の歩み)」所収
岩国キリスト者平和の会、編集:岩井健作、来間高夫

