「アレテイア」p.67-72、NO.41 所収、日本基督教団出版局 2003年6月1日発行
川和教会代務者 岩井健作
(川和教会代務者2年目、健作さん69歳)
黙想(前半”釈義”部分は割愛)
たまたま与えられたテキストであって、ヨハネの有名箇所ではない。「独立して扱うべきかどうか」とさえ言われている(松永希久夫『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局 2000、p.274)。だが、ヨハネはどうしてどこをとってもこうも深遠で、また共観福音書と違うのだろうかとの思いを深くする。過酷な歴史の流れに身を置く者をさえ、時間を超えた黙想へと誘う。ヨハネの時間はなにを指示しているのだろうか。「永遠の命」という言葉が思考をよぎる。
「私見によれば、ヨハネ福音書のこのような主張には、律法が世の始まる以前から存在していたというユダヤ教のラビたちの発想が前提され、これに対抗してイエスの啓示を対峙させているように思われるのだが、そこには死を通して完成されるという時間的な発展がない。イエスは最初から完全なものとして、神から派遣され、再び天に戻ってゆくということになってしまっている」(小林稔『新約聖書(3)ヨハネ文書』岩波書店 1995, p.149)。
「イエスとは何者であるか」という問いは、ヨハネの1章から12章までの福音書の前半部のユダヤ人たちとの論争の中心点である。「メシア(キリスト)か」「はっきりせよ」。イエスが自称すれば、神を汚す罪に断定し(10:33)イエスを殺害しようとする。「誰か」と問う者は、また自分も「誰か」が問われる。この問いが持っている構造を理解しないまま、権力と力に任せて、その問いを問いまくる輩に、歴史はどれほど苦しめられてきたか。また今も苦しめられているか。ヨハネのイエスは、その問いを凌駕して、この福音書の中を進んでいく。
G.タイセンは、ヨハネでは「称号に縛られたキリスト論が比喩によるキリスト論によって凌駕される」(G.タイセン『新約聖書』大貫隆訳 教文館 2003、p.229)という。つまり、メシア的尊称を越え「わたしは何々である」という「わたし言葉」の比喩表現(パン、世の光、良い羊飼い等)が「イエスとは何者であるか」の問いを超えるのである。定義を凌駕するイエスの存在にわれわれも圧倒されないであろうか。
今日はこの原稿の締切日。2003年3月31日。テレビでは米英のイラク攻撃がバグダッドに迫っていることを伝え、イラク民間人、特に女性、子供の死傷者の悲痛な状況を遠慮しがちに放映している。ここ間もなく市街戦が繰り広げられるだろう。アウシュビッツ、ヒロシマ・長崎、南京、ピカソのゲルニカを思う。
戦争はどれも理不尽だ。しかし、こんな理不尽な戦争はかつてなかった。国連安保理決議が得られないまま、自国防衛の自衛権が理由とは、超大国がイラクに、また世界に向けて言うべきセリフではない。「大量破壊兵器保持の解体」「独裁者からのイラク人民の解放」「民主主義を中東世界に」「テロとの戦い」。メディアが垂れ流すプロパガンダに、中東の当事者はもとより、人のよい日本人のその中の一人の私でさえ、言葉の嘘ぐらいは分かる。
想像を超えた破壊力を持つ軍隊の保持と経済のグローバル支配を成し遂げ「帝国」そのものの様相を剥き出しにする米国のこれ以上の世界支配に対して、素手の私に何ができるというのか。この週末も東京に行って、「Only the People Can Stop the War!」と叫びつつ歩くのが精一杯だ。そしてユダヤ人たちの前に立ちはだかるヨハネのイエスが心によぎる。
ヨハネのイエスはユダヤ人たちと対峙して一歩も退かない。「瀆神を理由にする石打の刑」には詩編86編を用いて反撃する。さらに37節からは攻勢に出る。「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」。これはなにを言っているのだろうか、と黙想をしているうちに、ふと思い当たったことがある。いつか出会った屋根葺き職人さんのことだ。
西洋建築の屋根の銅板を張り替える職人さんはその街には数えるほどしかいなかった。港街の教会の高い尖塔に30メートルもある櫓を組んでその上で、日がな一日港を見下ろしながら職人さんは教会の塔の銅板葺きの仕事をしていた。好奇心旺盛な私は足場を上がって、仕事を見させてもらった。ラジオがひとりおしゃべりをしていた。あの異人館の銅葺きはわしの仕事じゃ、もう緑青が出る頃やろう。あそこの教会の塔もわしじゃ。一つ一つが誇りのようだ。仕事を見れば職人がどういう人かが分かる。名前でも、肩書きでもない。永六輔の『職人」(岩波新書)の中にあった「私ァ名もない職人です。売るために品物をこしらえたことはありません。えェ、こしらえたものがありがたいことには売れるんです」という言葉を思い出した。
これになぞらえて言えば、「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」というイエスの言葉は職人の言葉だ。イエスの業とは啓示者の全体だ、とブルトマンは言っているが、イエスの業が職人の遺した仕事のように見えるのならばすばらしいことである。そんな証しをわれわれは見ていないであろうか。ヨハネが主張する「父との一体性」もそうすれば分かると言う。業と人格とは一つであって切り離せない。ヨハネのイエスの業は「徴(セーメイア)」であり、また言葉としては「譬え(パロイミア)」であるという。
「信じる」ということはヨハネでは、何かを観念的に思い込むという行為ではなくて、関係のなかにはいるということを意味している。関係は相互性であるが、同時に、ヨハネでは恵みの先行の自覚を含んで成り立っている。恵みの中にすでにいることに気がつくこと。「わたしの羊」の「わたし」とはその先行性を言っている。相互性のもう一面は「声を聞き分ける」関係だと言う。受動的能動の関係である。イエスを信じるということは関係を生きることだと思う。
ヨハネは救済を個人的に扱う。「キリスト」に対する個人の決断のみが、ヨハネによれば教会を構成する。イエスに呼びかけられたものが、彼の「弟子」であり(13:15、15:8)、「友人」であり(15:13以下)、そうして「彼の者たち」であった。彼らは地上において、すでに生命と光の天的領域に属しているのである。世に対する共同体の在り方は否定的にしか表されていない。そんな教えは「教会形成」のみを叫ぶ現代の教会にとって危険だろうか。そうではない。決断という人格的関係を経ないで、観念への思い込みだけを「決断」する宗教ほど怪しいものはない。米国大統領ブッシュが、熱心なクリスチャンであることと、祈って戦争を遂行していることをどう考えたらよいのか。世界に広がる反戦行動は、故なく攻撃される民衆の側に身を置き、その一人一人の人格を背に負って、攻撃する側に対して「NO WAR」と二人称で向かい合いを持った運動だ。理念からの運動でないだけに、成り行きの不安はある。それだけに、ヨハネのイエスの佇まいからの励ましも大きい。ユダヤ人は「神」を律法の中からしか見なかった。それは「民主主義」を制度の中だけにしか見ない権力者の発想と重なっている。イエスは、そんな心の堅いイデオロギストのユダヤ人たちに対しても、業を見よ、「神」はここであなたがたに語りかけているのだと、声をかけている。
私たちは、与えられている状況で、息長く語りかけていかなければならない。世界がほぐれていくことを信じて。イエスに従い続けるために。
追記 ブルトマン『ヨハネ福音書注解』(Rudolf Bultmann, “Das Evangelium des Johannes” 1941)の日本語訳は近々刊行されると聴き、すでに訳稿を出版社にゆだねている、訳者の杉原助氏にゲラの該当部分を見せていただきたいと申し出たら、快くお貸しいただいた。心から感謝します。
(サイト補記)『ヨハネの福音書』R.ブルトマン著、杉原助訳 日本基督教団出版局 2005)
