1989年執筆、掲載誌未詳
(原稿用紙に手書き→縮小コピー)
小磯良平氏は1988年12月26日に召天
(神戸教会牧師11年、健作さん56歳)
私は少年時代から小磯良平画伯の絵が好きでした。その人物像、特に女性像は、静かに、息をつめた長い注視によって輝き出します。厳正な写実を守るそのアカデミックで、デッサンの修練を重ねた線の美しい手法は、独特な清楚な雰囲気と気品をかもし出しています。まさに日本の洋画壇の雄でした。この方の葬儀を、牧師として私が司るなどとは夢にも思っていませんでした。
私が11年前、神戸教会に牧師として赴任してはじめて小磯宅を訪問した時、応接室で、出てこられた画伯が、同伴の私の妻の容姿の全体を芸術家のまなざしで鋭く捉え、その一瞬の後、"画家の目"は、温かい普通の人の目にもどり、挨拶が交わされました。神戸教会のH氏は、小磯画伯のアトリエ建設などで陰の力となった人ですが、晩年、自分の肖像画を小磯画伯に依頼して描いてもらいました。H氏はその後、信仰の生涯を安らかに閉じました。私はH氏の死に顔が実に柔和で平安であることと、それは、例の肖像画と全くよく似ているのを見て驚きました。画伯の目が、その人の神の前での最も美しいものを見つめていたことを知ったからです。小磯画伯は無口でした。訪問の時、別れ際に私が祈りますと、その無口を補うように、「アーメン」と大きな声で唱えるのが常だったことをなつかしく偲びます。
神戸教会は、今年創立115年を迎える、西日本では一番古いプロテスタント(今は日本基督教団、元は会衆派)の教会で、小磯画伯の生家、岸上(きしのうえ)家も、養子になった小磯家も、共に熱心な神戸教会員で、小磯良平兄は、小さい時から日曜学校に出席し、自由な雰囲気の中で育ちました。日本の近代的発展の原理は、富国強兵と精神的基盤は「天皇制」ですが、小磯画伯はそのようなものになじまない精神を持っていました。太平洋戦争中、軍から戦争協力を強制されて描いた絵も、戦闘場面ではなく、休戦会談の場面などでした。日本の政府による官製の展覧会に抗して「新制作派協会」を結成させた画家たちの一人です。神戸の戦災で家を焼かれ、神戸教会の知人宅に仮寓している時、食糧が少ないテーブルを賑わすため、紙に野菜の絵を描き切り抜いたものを作ったというエピソードがあります。また東京藝術大学の教授を20年間勤めて、後輩の指導をしましたが、自分の絵を描く時間を切りつめ、神戸から東京まで(約500キロ)通いました。
小磯画伯の作品には直接キリスト教を題材にしたものは少なく、聖書の挿絵(日本聖書協会版)32点がある位です。しかし、私は他の作品も、信仰や宗教が、精神化、内面化、匿名化されたものと考えています。そして、それらには、万人に愛される平易さがありました。私は心から氏の死去を惜しむものであります。
小磯画伯の婦人像(1989 随想より)
