1976年9月1日「教会婦人」掲載、全国教会婦人連合発行
(岩国教会牧師11年、健作さん43歳)
第一人者になろうと思う者は万人の奴隷となりなさい(マルコ 10:44、荒井献訳『イエスとその時代』岩波新書 1974)
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない(マルコ 10:44、日本聖書協会 口語訳 1955)
引用した聖書の言葉は荒井献著『イエスとその時代』(岩波新書 1974)の中の訳です。荒井氏が解説をつけている為でもありましょうが聖書協会訳では響いていない意味合いを感じます。「かしらになりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない」と聞き慣れた言葉では、事柄を私たちが実際経験している人間関係の中にだけ置き替えて捉えてしまいがちです。捉える側の生活基盤の狭さといってしまえばそれまでですが、例えば「すべての人」がいつの間にか自分と関係を持ち得るすべての人といった具合に矮小化されてしまってはいないでしょうか。また「僕(しもべ)」にしても、イエスの時代にローマ皇帝即ち「第一人者」を頂点とする社会諸関係の中で、最下層の苦悩を底知れず負っていた「奴隷」の立場への想像が消えて、人間関係の中で相手に仕えていくという実存的な自覚の問題だけが浮かび出る可能性があります。
もし、私たちが自分の経験している人間関係の中で、たとえ逃げ場のない所におかれていても、なおその中で愛をもって相手に仕えていくことを通してキリストの十字架の愛が活きて働いているということを聞きとらねばならないとするならば、パウロの言葉の方がそのことを迫っています。「兄弟たちよ。あなたがたは自由へと召されたのだ。ただ、この自由を、肉に働く機会を与えるために用いず、愛によって互いに仕えよ」(ガラテヤ 5:13、佐竹明訳)。ここでは、抜き差しならない人間関係の中で問題を自分の事柄として受けとめることによって、自分自身が変えられていくために「仕えよ」(「奴隷となれ」という言葉)が語られています。パウロは「奴隷」を実存の問題として用います。
ところがマルコには「奴隷」を旧約以来の社会関係を踏まえて「虐げられた者」を神の正義から見ていく文脈があります。「奴隷となれ」は、今私たちが生きている社会諸関係の中で、自分がその虐げに加担しているかもしれない関係の自覚を鋭く迫っています。そういったことは、私たちの日常の個人的人間関係の背後に隠れることが多いものです。さらに「万人の」という言葉からどれほどの射程をもち得ましょうか。遠すぎて関わりのない人たちのことだけではなく、近すぎて虐げの構造の中にありながら気がついていない身近な人がいるかも知れません。「万人の奴隷となれ」という言葉の促しによって福音の広がりを生きる者となりたいと存じます。
(西中国・岩国教会牧師 岩井健作)
