「いつわりの平和を問う」《マタイ 10:34-36》(1971 待降節)

「新生」1971年12月1日(巻頭言)
西日本新生館発行

(岩国教会牧師、健作さん38歳)


世の悲しみと共に

 うらぶれた郊外にたたずむキリスト、こんなテーマを画いたのはルオーでした。ルオー流に言えばキリストは街角のショーウィンドウにも、団欒のマイホームや小じんまりとした教会堂の中にすらおられないでしょう。「そこにキリストがいるから」と言って、はるかネパールの山の人々の間に住む岩村医師にならって言えば、キリストは私たちが知らない路地の奥で、世の悲しみに耐えている者たちと共にいるのではないでしょうか。そして、そのことは、こと改めて新たに語られ、聞かれるべきクリスマスの永遠のテーマでもあります。

いつわりの平和を問う

 「小さなクリスマス…アイ•ラブ•ユー…プレゼントは何もないけれど…あの人のために、小さなキャンドルかざってますの」。新谷のり子の歌う甘いメロディーがテレビから流れてきて、今年も世の深い悲しみをよそにクリスマスが平穏な季節のひとこまとしてやって来ました。こんな時、聖書に向かう私の目は、クリスマス物語として知られる東の博士たち羊飼たちの物語をはるかに通り過ぎて、イエスの次の言葉に引き寄せられます。

 「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ 10:34)

 ここには、公害に苦しむ人たちがいても、何か平気になってしまっているような、私たちのうちのいつわりの平和がきびしく問われています。

投げ込まれたつるぎ

 イエスが語ったこの鋭い言葉は、マタイ福音書の「弟子派遣の説教」(マタイ 9:35-11:1)の結びのところにあります。

 弟子たちが伝道の使命をはたすとき、もっとも身近な家族との間にすら、仲違いが起こってくることをいっていますが、この言葉をどのような問題意識で捉えるかが大事なことです。

 ある人は、使命というものを成し遂げるには、それがもつ大きな目標のために、小さなこと、例えば家族との不和など、犠牲が出るのもやむを得ないことだ、と捉えます。軍隊や国家が言いそうな論理です。

 またある人は、個人というものが、かけがえのない人格として大切にされるためには、一度打ち破られなければならない、いつわりの人間関係の問題として捉えます。封建的家族制度の中で、ひとり、家族との葛藤に苦しんで、個に目覚めている人には、こういう逆説的な捉え方は大変慰め深いものがあります。

 しかし、このようにだけ捉えたのでは不十分です。この言葉には、単に人間関係のいつわりを根本的に見据えていく預言者の思想の流れが入っています。だから、イエスの出現は、その存在そのものが「つるぎ」なのです。私たちはどこかで世のいつわりに慣れてしまっているとき、そんな生き方の中にイエスは入って来られるのです。

岩国の兵士

 私は米軍基地のある岩国に住んでいます。住み慣れてくると基地があることに慣れてきて、何とも感じなくなってきます。ここを通ってベトナムに兵力が送られているのですから、どう考えても、ベトナムの人から考えて、基地があっても平気だというのは、戦争の加害者の側にいることになります。その基地に核兵器があるとするなら、まさに核の加害者の側の人間です。基地の中の兵士のうちには「自分は兵士であることを止める以外に、この加害者であることを止めることは出来ない」といって、兵役拒否をする人たちが、もう何人も出てきました。この人たちのうちに、子供の頃、日曜学校で聞いた「汝の兄弟を愛せ」という言葉の意味がやっと分かってきた、といった人がいます。兄弟の意味を同胞から、ベトナムの人たちまで広げたとき、もう彼は戦争には加われなくなったのです。そして軍隊というものに抵抗を始めたのです。彼らは、もはやクリスマスに小さなキャンドルを立てるのではなく、反戦の歌をうたうでしょう。時代の激しい流動の中で、私たちに「つるぎ」を投げ込むために来られたイエスを受け入れて、共に生き始めようではありませんか。


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