もうこれでいい。時が来た。(2002 神戸・礼拝説教・ゲツセマネ)

マルコ 14:32-42 “ゲツセマネで祈る”
(マタイ 36:36-46、ルカ 22:39-46)

2002.3.10、神戸教会礼拝説教
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(神戸教会主任牧師退任の1ヶ月前、健作さん 68歳)

マルコ 14章32節-42節

 キリスト教の総合雑誌『福音と世界』の今月号(2002.3月号)の表紙絵には、画家・渡辺総一氏が「ゲッセマネの園での祈り」という題の絵を描いています。決して抽象画ではないけれどもかなり図案化された絵です。

 古来多くの画家が「ゲッセマネの祈り」を画題にしてきました。構図は「眠れる三人の弟子」「地に臥して祈るイエス」「上(から)の光」、渡辺さんの場合は、空に光を象徴する白い三角の星のようなものが描かれています。そして「深閑とした風景」といった配置からなっています。少し、このテーマの絵を調べてみたら面白いのではないかと思いました。今回時間の余裕がなくて、できませんでした。もしかしたら、画家たちのこのテーマへの関わりのスタンスのバラエティーが伺われるかもしれません。

 スタンスというのは、辞書を紐解いて見ますと「(岩登りの)足場、(球技打者の足の)位置[野球の選手がバッター・ボックスに立つ時の足の位置]、(心のありようを示す)姿勢」という意味です。この構え方で、それぞれの画家の表現の違いがありますが、これはなかなか示唆に富んでいます。

 手許には残念だが、渡辺さんのものと、小磯良平さんのものとしかないので、その二つを比べるだけのことなのです。小磯さんと渡辺総一さんのものを並べてみると全体の構図はよく似ています。しかし、スタンスはかなり異なっています。

 渡辺さんは「表紙の言葉」を雑誌に書いています。
「イエス様は汗を血のように流しながら祈りました。それは、十字架の死でこそが人を救う道であることを神に確認するためでした。ゲッセマネはオリーブを絞るという意味ですが、イエス様の祈りに重ねてみました。また、十字架への道は、神と人との和解への道であることを噛み締めました。」とあります。極めて神学的な表現です。

 背景の空は、夜を示す青紫です。空に神を象徴する三角の白い星があります。岩山が画面の三分の二を覆っています。そしてここが特徴なのですが、オリーブの木が三本図案化されてイエスと弟子を覆っています。イエスは大きなテーブルを象徴する囲みの線に、ひざまずいて、頭を深く垂れて祈っています。オリーブの木は「絞る」ことを象徴しています。「血の汗」のイメージは、テーブルの朱色とそこに置かれたぶどう酒のグラスと滴る汗が小粒の白い三角で四つほど描かれています。地に伏すイエスの強烈な内面的苦悩がそこにはよくでています。グラスのブドウ酒の朱色には「贖罪」の血が象徴されています。弟子たちは三人固まって画面の隅で眠っています。絵のテーマはどこまでも「贖罪」のイエスです。

 それに比べて、小磯さんの絵はどこまでも写実的である。聖書の挿絵です。小磯さんは写実の画家ですから、絵そのものにメッセージを持たせないのが特徴です。新聞小説の挿絵をたくさん遺されていますが、これは挿絵に徹する画家でなければできないことです。聖書テキストにオリーブは出てきませんので、絵にも出てきません。荒涼たる岩場に天の一角から光が差し込み、イエスは、その光に顔の面を上げている。渡辺のうつむくイエスと対照的で光を仰いで祈っています。イエスはユダヤ教の祈りの形式から(内容も)自由に祈ったであろうから、祈りの姿勢も多様であったと思われます。神を「アバ」(お父さん)という日常語に置き換えて呼んだことは有名です。

 そもそもこの物語は、ある瞬間の、一場面ではない。祈りそのものに幾つもの場面があったに違いない。とすると、汗を血の様に、というのも本当でしょうし、面を上げて、神に懇願する姿勢もあったにちがいない。祈りの最後、「御心に適うことが行われますように。」に中心を置けば、面を上げて祈ったことは、懇願の切実さを示しているといえます。

 ゲッセマネの祈りの記事は、前半は、イエスの苦闘にあるけれども、後半は、イエスの弟子たちへの関わりを示している。

 前半については、もっとも身近な弟子が眠っていたのですから、ここのイエスの苦闘については、本当には分からない。人には「隠されている」という意味で「神の苦しみ」に属している。
 いわば、神の舞台に属することである。

 しかし、37節以下は、イエスと弟子たちの関わりを語っている。ここでには、マルコ福音書が一貫して描き出してきた「弟子たちのイエスの無理解」のテーマがある。三回にわたる、イエスの受難予告を、弟子たちは理解してこなかった。このゲッセマネでもイエスは三回、祈りの場から弟子たちのところに戻ってきている。ここでも三回とも弟子たちはイエスの真意を理解していない。

 イエスは弟子ペトロを伴って、祈りの伴走者とされた。選手に付き添って、その苦闘を見届ける役目である。「目を覚ましていなさい」とはそのことである。しかし、ペトロはその役ができなかった。彼はここでは昔の名前「シモン」と呼ばれている。「ペトロ」はシモンが弟子に選ばれた時の名である(3:16)。古い人格を示している。「心は燃えても、肉体は弱い」といわれている。シモンは肉体の弱さを象徴するためにわざわざいわれているようにも思える。「心は燃え……」の言葉は整った言葉なので旧約聖書のどこかにでてくる格言のように思われますが、旧約には出てこない。むしろパウロ書簡にでてくる。こころが燃えるのは、ペトロと呼ばれるイエスに従った新しい人格。ところが、それは何度もイエスに従うと告白しながら、挫折をする。古い人格であるシモンの弱さがいみじくも顕になっている。

 イエスは一度目の時「眠っているのか」と疑問文で問い掛けている。責めているというニュアンスを幾らかは持っている。無理解な弟子への、問い掛け、促しを含んでいる。しかし、三度目には、様相は変わっている。

 41節は、イエスの言葉は37節とは決定的に異なっている。37節では「眠っているのか」と疑問文になっていて、問い掛け、叱責のニュアンスがある。しかし41節では「眠っている」と事実だけが述べられている。イエスの弟子への断念と理解すればよいのか。あきらめか。もしそうであれば、弟子の無理解は初めから分かっていたことである。だとすると、イエスの弟子への「赦し」ととらざるをえない。そうして、このゲッセマネの場面のメッセージをそこに読み取ることが赦されるとすればそれは大いなる慰めである。

 にもかかわらず、ここは、内面のイエスは自身の内面の厳しさとは対照的に弟子たちへの赦し、受容がにじみ出ている。そこから理解すると「心は燃えても、肉体は弱い」と、これも弱い弟子を受容する意味にとれる。

 決定的なのは「もうこれでいい。時が来た。……立て、行こう」という言葉であろう。「もうこれでいい。(アペケイ)」は、元来は商業用語で、「支払い済み、勘定は済んでいる」という意味である。イエスが祈る場面の横で眠る弟子に「祈りの勘定はもう済んでいる」と語る。祈れないことへの執り成しである。

 ここで、眠ってしまった弟子の姿があらわになると、同時に、祈りは神の行為であって、人の業ではないことが、はっきりする。

「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ロ−マ8:26)とパウロがいっているが、この表現には、祈りが人の業、人の行為ではないことがよくいい表わされている。

 そんな弟子がなお「立て、行こう」と十字架の道行きに一緒に行くように招かれている。ペトロ。あの挫折せるものにも、なお招きが、と思うと慰め深い。


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