「教団・信仰告白」と「教団・戦責告白」を巡って(2004 戦責)

2004.1.25 日本基督教団神奈川教区オリエンテーション委員会用

川和教会代務者 70歳

1.自己紹介を兼ねて、私の信仰の個人史を顧みての信仰告白と戦責告白

1−1.会衆派教会の出身であること

「非信条主義的聖書主義」(魚木忠一)会衆派における「個人の信仰」と「教会の『信仰の告白』」との関係及び「各個教会の『信仰告白』」と「組合教会全体の『信仰の告白』」の関係は緩やかな相互関係。

1−2.教団諸教会では「信仰告白」に関してはその扱いに個別教会に於いてかなりの幅がある。

 私の生活(牧会を含む)した教会、坂祝、京都、広島流川、呉山手、岩国、神戸、川和

2.1954年11月「教団・信仰告白」との出会い

 北森嘉蔵教授(於同志社神学部)から学ぶ。

① 旧教派の教会観による信仰告白に対する解釈の一致が見られず戦後延び延びになった。
② 信仰告白のすみやかな制定は会派問題(旧日基の離脱)の付帯決議としてスタート(1951年 常議委員会)。
③ 性格、信仰告白(Confession)の讃美・告白の自発性と拘束性(責任性)による相即を計り非信条教会と信条教会の隔たりを克服する。
④ 実際的な性格は受洗者教育 − 福音主義教会の信仰告白の要約。
⑤ 昭和18年の教義の大要の継承。贖罪のキリスト(キリスト論)の強調、義認と聖化の相即、等。

3.私の社会的感性(戦責への道程

 父親の開拓農村自給伝道における農業の社会的矛盾、経済の二重構造、戦後民主主義の占領政策による限界(後、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波 2001)で明確に知らされた事実)。朝鮮戦争以後の反体制勢力への政治弾圧(破壊活動防止法 1954、警察官職務執行法改正反対闘争への参加)。

 牧会に出てからの広島における原爆被害の認識、朝鮮戦争特需における呉の町の復興(1964年「教団新報 3422」に「憲法擁護声明その後」と題して教団護憲声明(62)批判執筆)、1965年以降岩国にて「日米安保条約体制」が「憲法体制」をなし崩しにしている事実を身をもって知る(この体験は、米軍岩国基地撤去運動、ベトナム反戦活動、沖縄反戦地主支援、アフガニスタン・イラク反戦、有事法阻止、自衛隊海外派兵反対などの運動に継続)。

 1958年牧会に出てから「戦責告白」を提起するまでの意識形成はこの他「キリスト者平和の会」などで養われた。

4.教団の宣教方針の学び

 敗戦以後、根本的反省を経ないまま、占領軍の宗教政策といわゆるキリスト教ブームにのって教勢の進展を願って布教拡大志向 − 新日本建設キリスト運動が展開される(賀川伝道を受洗間もない中高生時代に経験)。しかし伝道はあまり進展しなかった。特に農村教会、あるいは開拓教会は困難を極め疲弊した。

 宣教方策の反省。土着化論、社会大衆化論。宣教百年の記念諸行事を終わって、社会大衆の中への進出が打ち出された(牧会に出て間もない頃)。教団は宣教の方策として、農村、職域伝道(西中国教区で、杉原助氏らに協力)、青年、婦人(教団婦人専門委員を2期務める「私も地域の証し人」の主題)など専門領域での伝道がなされた。しかし、新たな開拓伝道が、北海道、東北、奄美などで行われたが、それも困難を極めた。

 教会の体質改善論の提案が当時なされ、日本基督教団はその方策をさらに深める為に1960年「クレーマー協議会」を行った。クレーマーはWCCのハンス・R・ウェーバーと共に宣教学の担い手であり、教義学からの発想が主流の日本の教会には大きな問題提起であった。その結果は「日本基督教団宣教基本方策」となって実を結んだ。

 以下は昭和36年(1961年)10月26日、第6回常議員会で承認された日本基督教団宣教基本方策の一節。

宣教とは何か。

a.父なる神は主イエス・キリストをつかわして、世をご自分と和解させられました。主イエスはわたしたちの人間関係に仲保者として立ち、聖霊の力によって、わたしたちが隣人に対して人格関係を挑むこと、すなわち和解の務めを果たすことのできるものとして下さいます。宣教のわざとは、このような宣教の父なる神みずから、キリストにおいて聖霊によって和解のみわざをなされることに信頼をもち、わたしたちの隣人に対して人格関係を挑むことにほかなりません。言葉による宣教はこのことと結びついて、その威力を発揮するのであります。

b.従って宣教は、この世の現実のなかで、隣人と生活を共にし、重荷と弱さを共にしのび、世の罪とキリストによる神の国の希望に対して連帯責任を負う生活の中で遂行されます。

(『日本基督教団史資料集第五篇』pp.187ff.「宣教基礎理論試論」宣教研究所・伝道委員会」)

 ここでは、「信仰告白(文)」よりも「信仰告白(事態)」の生活化が問題となった。

5−1.戦責告白にいたるまで

 戦争中の教会の戦争協力への反省のなさ(日曜学校での「神仏キリスト号飛行機献金」などへの反省は多少はあった)。安藤肇『深き淵より』『あるキリスト者の戦争体験』のインパクト。

 1966年の「教団教師研修会」での若手牧師の1人として教団として戦争責任を明確にすることを指導者(当時伝道委員長・鈴木正久氏)に訴える。委員会を作り、関西で議案の提案文、関東で「戦責告白」本文を作成、第14回教団総会に提案、1967年鈴木議長名で出される。

5−2.教団諸教会からの批判(手続き論、戦時の戦争協力は倫理のレベルの誤りで、信仰の誤りではなく「信仰告白」と同じレベルでの「告白」には反対)。

 他方「教団・信仰告白」の非状況性ないしは政治性(会派問題対策)への批判があった。5人委員会が表面上の事態収拾をしたが、今に至るまで解決はしていない。これは、一方は教会の破壊に通じると言い、他方は、開かれた対話性(諸宗教に対してまでも)であるという。

5−3.内容についての距離感は最初からあった。「地の塩」「世の光」「見張りの役」を果たせずという、神学的(ある意味では高踏的)見解から、現実を切ってしまい、戦争協力への、キリスト教信仰そのものの構造に対する内省ないしは、批判的視点の欠落に薄々気がついてはいた。

6.1970年以降の問題提起者の提起

 教師問題(検定基準を信仰告白とするのか、様々な立場を切り捨てない、を含むのか)。

「教団・信仰告白(文)」の状況捨象性の指摘(「戦責」がそれを補うものと見る立場あり)。

 同時に「戦責告白」の状況捨象性も指摘される。

7.聖書学からの問題提起(イエスの出来事と弟子たちの復活信仰 − 原始キリスト教の信仰告白との関連 − 文言化されてしまう信仰告白事態への批判的契機をどこで保つのか − 歴史のイエスへの探求)などの問題がある。