最後の不発弾が処理されるまで(2009 沖縄)

2009.6.17 発行、「求め、すすめる通信」第12号所収 

沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会

(連絡会代表、明治学院教会牧師、健作さん75歳)

「最後の不発弾が処理されるまで『沖縄戦』の戦後は終わらない」(「Kyomei《共鳴・響命》」No.76、2009/4、編集発行・村椿嘉信)。

 村椿さんは(現沖縄教区議長)は「不発弾」を巡る緊急課題を克明にレポートしている。

 今年1月14日の糸満市小波蔵の「老人ホーム 沖縄偕生園」の不発弾による爆発事故、続く那覇市の「黄リン手榴弾」、与那原町の219人が避難した「5インチ艦砲弾」処理。1月28日、知事、県市長会長、県町村会長は首相官邸に麻生首相を訪ね、国の責任を認め被害補償や探査・処理の実施をするように求めた。2月、政府は「不発弾等対策安全基金」を設け運用することを決めた。しかし被害者には「補償金」ではなく「見舞金」を支払うことになったという。

 政府は過去の戦争に責任は取らない。このことを村椿さんは強く批判する。「沖縄タイムス」の「不発弾処理」に関する記事の「切り抜き」コピーを掲載している。ローカルな報道は、印象深い沖縄からの訴えである。

 本土でも5月6日、テレビ朝日が「報道ステーション」で「住宅街のそばに爆弾、沖縄の現実」を報道した。それによれば、沖縄戦では20万トンの爆弾が使われた。1万トンは不発弾であった。未だ2500トンの不発弾が地中にあるという。1日、11箇所52発の処理をしても80年はかかると告げていた。しかも工事現場での磁気探査の費用は公共工事には出るが民間工事には出ないという不合理も報道していた。沖縄戦の戦後はこれから80年は終わらないのだ。

 この80年という時間に僕は「本土」と「沖縄」との時間の流れの質的違いを実感させられる。それは不発弾の脅威にさらされつつ「沖縄戦の当事者責任」を問い続ける主体の緊張した時間を過ごす者と、たとえ自覚したとしても責任の取り方がずっと間接的であり、連帯的であり、緩やかな時の流れの中にある者との差異である。

 2月、ある市民運動の全国集会が沖縄であり、私は「神奈川教区基地自衛隊問題小委員会」から参加した。高江の「ヘリパッド建設および着陸地帯移設阻止行動」の現地訪問は初めてだった。150人余の人口の村人が「やんばるの森にヘリパッドはいらないよ」(横断幕)を掲げ、生活と重ねあわせ四六時中交代で「米軍再編」という組織「暴力」の巨大な力と向き合う運動のエネルギーに圧倒された。『戦争論』(多木浩二、岩波新書 1999)の「あとがき」で著者が「書き始めると不思議なことが起こった。戦争漬けになって絶望的な時代の世界を相手に考察しながら、私は自分が、身体の方向を未来に向け始めたのを感じた。そうしなければこれほど暴力的で何も生まないカタストロフには取り組めなかった」(p.200)と言っている。

「求めすすめる連絡会」が向き合う相手も絶望的な様相を呈している。しかし、なお身体の方向を未来に向けつつ、この運動を担い励んでゆきたい。

構造的沖縄差別を考える(2012 沖縄)