「戦後の農村へ ー 僕らの村の使徒行伝」三品進(1984 引用)

『敬虔なるリベラリストー岩井文男の思想と生涯』
新島学園女子短期大学 新島文化研究所編 新教出版社 1984 所収

三品進氏:1984年執筆当時、坂祝(現、中濃)教会役員、和知小学校教諭

(サイト記)本文から「坂祝行き」決心の場面、一部引用です。(上掲書 P.189-191)画像は上掲書より。

1950年 鶏小屋の前にて(文男さん48歳)

 1946(昭和21)年の春、旅費を工面した兼松、栗山の両氏はこの地で伝道をする牧者の派遣をお願いするために、東京の教団を訪ねた。両人に快く面会し、相談にのったのが当時の主事・岩井文男だった。

 両人は身軽な若き人材が配されるものと思い込んでいたようである。

 おお、それがどうじゃ。

「坂祝のことはよーく存じている。私は若い頃、坂祝の隣の加茂野の駅前に住んで伝道したことがある」

 と言われるではないか。

「教団は大戦によって弾圧され、大きな痛手を受けてまだ立ち上がっていない。若い伝道者も育っていないのが現状である」

 という説明を聞いて、遠路はるばる師を求めて上京した両人は、へなへなと崩れんばかりであった。

「御両人、何を落胆し、何を怖れるのでありますか。全能の主は私にこうお命じになる。『岩井文男、今すぐ行きなさい。東京のことは東京の牧者に任せよ。坂祝は汝でなければならない』。お帰りになったら村の衆に伝えなさい。私が行くと」。

 両人は驚き呆れ、かつ喜んだ。その喜びはイエスにゆるされた取税人たちの何倍もであったようである。

 どうせ若造の神学生に一寸毛の生えたぐらいの教師か、或いはよぼよぼの……いやそれでも有難いと思っていたのが本音であった。だのに、教団のホープ、そして到底教団も東京も手離さぬと思われる人物が「私が行く」と言われた。

 自分たちから見れば、とても手の届かぬ雲の上にいるような人が、麦と藷(いも)の畑へ、美濃の田舎へ来て下さるという夢のような話に両人は力と勇気を得て、ヤコブのラッパが響くなかで帰途についた。余程嬉しかったんだろう。兼松氏は八重洲口で大事な財布をスリにやられてしまったが、誰がみても全財産を失った人には見えず、その目も顔も生かされ、満たされていた。この世の財の何万倍いや無限の贈り物を得たからであった。

 このようにして岩井夫妻は育ち盛りの男児四人を伴って坂祝の地に居を構えられた。

1946(昭和21)年の10月、岩井文男の第一声により、美濃の山村で聖日礼拝がとりおこなわれた。

 集まった人々はすべて帰ってから他の人々に告げた。「何と権威と真実をもって燃えるように説く人であろうか」。

(サイト記)1945年当時、文男さんは永福町教会牧師、教会付属帝都幼稚園園長、日本基督教団総務局主事。1946年9月、坂祝教会創立。牧師就任、農村伝道神学校理事就任。1946年10月6日、創立礼拝。健作さん13歳、この日受洗。

宗教部 笠原芳光(1984 引用-1)